OBT 人財マガジン

2012.09.12 : VOL147 UPDATED

この人に聞く

  • 株式会社 タニタ
    代表取締役社長 谷田 千里さん

    人間が持つ「習性」を理解しなければ、
    社員の意識は変えられない(前編)

     

    社員の意識改革を率先垂範で推し進める谷田社長は「人間の習性」をよく理解した上で、手を打っている。例えば人事制度の評価基準。従来は前年と同じ仕事をしていれば、前年と同額の給与がもらえる内容であったが、変更後は前年と同じ仕事しかしなければ給与は9割に減額となる。前年を超える成果をあげて初めて、同額かそれ以上を支給するという基準に変えたのだ。「競合や第三国のメーカーは大変な努力をしているというのに、そんな基準では誰も努力しませんよね」と語る谷田社長。「危機感を持ってくれ」と闇雲に伝えるよりも、「人は本来は易きに流れるもの」だという前提に立ち、打ち手を考えた方がはるかに生産的なのではないだろうか。
    (聞き手:OBT協会代表 及川 昭)

  • [及川昭の視点]

    構造的な環境変化の中で多くの企業が変革を志向して試行錯誤しているが、そこには、経営コンサルタントの提案や△△研究所のリポート、或いは経営学者の知見等は全くの有効性を持たない。要は、教科書も正解も無いのである。
    企業における最大の資産は何か?私は経営リーダーの経営観と能力そのものであると考えている。改革や変革に際して最も重要な点は、ただひとつ「会社をつぶせない」という経営リーダーの強い思いだけではないだろうか。 組織内に蔓延している"現状を維持したい""変えたくない"等といった意識や考え方を変えられるのは、唯一経営リーダーの本気度にかかる。それなくして何も変わらない。株式会社タニタの改革を推進する谷田社長から一層その思いを強くした次第である。

    聞き手:OBT協会  及川 昭
    企業の持続的な競争力強化に向けて、「人財の革新」と「組織変革」をサポート。現場の社員や次期幹部に対して、自社の現実の課題を題材に議論をコーディネートし、具体的な解決策を導き出すというプロセス(On the Business Training)を展開している。

  • 株式会社 タニタ http://www.tanita.co.jp
    1923年に谷田賀良倶商店として創業。貴金属宝飾品やシガレット・ケースなどの製造販売からスタートし、1944年に(株)谷田無線電機製作所に改組。戦時中は軍用通信機部品の製造、戦後はOEMによる受託生産でトースターやライターなど多岐に渡る商品を手掛ける。1959年に日本初の家庭用体重計『ヘルスメーター』の製造販売を開始し、1974年に「はかるもの」への進出方針を打ち出して自社ブランドの育成に注力。1986年に(株)タニタに改称、1992年に世界初の乗るだけで脂肪がはかれる『体内脂肪計』を発売、世界トップシェアを築きあげる。2005年にフィットネス事業を立ち上げ、2010年にレシピ本『体脂肪計タニタの社員食堂』(大和書房)を発売、2011年にヘルシーレストラン『丸の内タニタ食堂』をオープン。"健康をはかる"から"健康をつくる"へと、事業を拡げている。
    企業概要/資本金:5100万円、従業員数:1200名(グループ全体)、売上高:130億円(連結・2012年3月期)

    SENRI TANIDA

    1972年生まれ。93年に調理師専門学校卒業、97年に佐賀大学理工学部卒業。アミューズメント施設の企画・運営会社ニュートン、船井総合研究所を経て、2001年にタニタに入社。05年タニタアメリカINC取締役、07年タニタ取締役に就任。08年より現職。

  • 自身の使命として"改革"を社内に宣言

    ──── "タニタ=ヘルスメーター"というイメージをこれまでは持っていましたが、ここ最近はずいぶん変わられたと感じております。その事象や現象面はマスコミにいろいろと取り上げられておられますので、今日は谷田社長の経営観や事業観をお聞きできればと思います。どんな企業でもそうですが、会社を変えるときには経営者のリーダーシップが非常に重要になります。その前提で考えたときに、谷田社長は何を大事にされて、タニタをどのような会社にしようとされているのでしょうか。

    今に至るきっかけは、先代の社長である父から、4年前に突然経営をバトンタッチされたことでした。当時、私はまだ取締役になって1年も経たないときで、「来年から任せる」と言われ、そんなに早く言い渡されるとは思ってもいませんでした。

    私は経営の経験はありませんが、何事もプラス思考ですので、父や役員と比べて自分は何が勝っているだろうかと考えたとき、フットワークの良さやチャレンジ精神なら負けないと思いましたので、これまでのやり方を踏襲するのはやめようと決めました。

    踏襲するなら、古くからいる方が経営したほうがうまくいきます。私を社長にするということは、タニタは改革を望んでいるということであり、そのチャンスをもらったのだと思い、就任の挨拶で「会社を変えます」と宣言しました。それが改革のきっかけです。

    ────お父様からは何かを託すといったお話はなかったのですか。

    子どもの頃からいろいろ教え込まれていましたので、言葉で言い尽くせないこともありますが、具体的に何かというのはありませんでしたね。常々、「二頭政治はしたくない」と言っていましたので、業務の引き継ぎといえば主要な代理店への挨拶だけでした。

    トップの率先垂範と役職者への負荷拡大

    ────社長に就任されたときに、会社に対してどのような印象を持たれましたか。

    良く見るか悪く見るかで変わりますが、悪くいえば「旧態依然としている」という印象でしたね。年配の役員が商品のデザインまで決定し、根回しするために無駄な仕事が発生して、デザインもパッとしたものが出てこない。それはそうですよね。弊社の主要なお客さまは女性なのに、性別も年齢も違う人間が決めているのですから。

    現場のデザインが良くないから役員が口を出すようになったのか、役員が決定権を握っているから現場がやる気を失ったのか。どちらが発端なのかはわかりませんが、マイナスのサイクルに入っていたことは確かでした。ですから、デザイン室の社員には「自分たちで決めていいよ」と伝え、役員には「これはもう現場に任せましょう」と言いました。現状を打ち破るために、双方に聞こえるようにそう言いながら、権限を委譲していったのです。

    人事の評価制度にも手をつけました。といっても、いきなり仕組みを変えると社内が混乱しますので、システムはそのままに評価の基準だけを変えました。それまでの基準は、前年と同じ仕事をしていれば、給与も前年と同額がもらえるというものでした。競合や第三国のメーカーは大変な努力をしているというのに、そんな基準では誰も努力しませんよね。

    そこで、前年と同じ仕事しかしなければ給与は9割に減額、前年を超える成果をあげて初めて、同額かそれ以上を支給するという基準に変えました。そうでないと企業は成長しませんから、これはもうスパッと実施しました。

    また、会社を変えるにはトップの率先垂範しかないと思っていますので、何でも私が身をもって実践しました。そう考えて、『上司帰宅ポリシー』という方針を打ち出したのですが、実はこれは私が一番辛いルールなんです(笑)。仕組みは簡単で、上司は部下が帰るまで帰ってはいけないというものでしたので、私の退社が一番遅くなるんですよ。

    ──── 社長が最上位の上司でいらっしゃるから(笑)。

    そうです(笑)。午前様になることも多かったですし、社員が休日出勤すれば私も会社に出勤しました。このルールをつくったのは、上司が部下をフォローしていないと感じたことがきっかけです。あるとき、たまたま体調が悪くて定時で退社したことがありまして、会社を出るとやはり定時で帰る部門の長を何人か見かけたんです。おや?と思って現場を改めて見たら、上司が部下の面倒を見ていない。そんな印象を受けて、「上司は部下の仕事が終わるまで帰らない。早く帰りたければ部下を手伝う」という方針を打ち出したわけです。管理職を集めて説明すると、「労働基準法違反ではないか」と反発する人もいましたが。

    ────それにはどう対処されたのですか。

    率直に、「出るところに出るなら、それでも構いません」と言いました。結果的に大事には至りませんでしたが、この方針で伝えたかったのは、部下の面倒を見るという姿勢であって、残業の強制ではないんです。ここで私に従ってくれる人と、そうでない人とにわかれましたので、それぞれの考えを知るいい機会にもなりましたね。

    トップの危機感は、一朝一夕には現場に伝わらない

    ────そうした改革を通じて、社長のお考えが社内に浸透してきたなと感じるまでに、どのくらいの時間がかかりましたか。

    どうでしょうか......、1年以上はかかりましたね。転機になったのは、私が自社工場に常駐したことでした。お恥ずかしい話ですが、弊社が品質問題を起こし、秋田と中国の工場に私がそれぞれ1カ月間滞在したんです。その間は本社を空けることになりましたが、製造業として重大な問題ですから、私が直接行こうと決意しました。

    工場の各部門を回って、「私が来たということは、よほど問題があると思ってください」とこちらの意見を伝え、現場の声も聞きました。飲み会もすべての部門とやって、全員とひざを交えて話しました。流れが変わってきたのは、そこからですね。

    弊社はモノづくりの会社ですから、コアはやはり工場です。それまでは、工場は私に対して「よくわからない人」という印象だったと思うのですが、直接話したことで「まともな考えを持っているじゃないか」と。これが、改革が全社に広がる転換点になったと思います。

    ────現場に受け入れられるというのは、とても大事なことですね。その前提には、社長が何を大事にして、タニタをどんな会社にしようとされているのかというトップとしてのお考えがあって、それに共感したときに現場は受け入れるのだろうなと。我々もいろいろな企業と仕事をさせていただいて、つくづくそう感じます。

    中長期の目標を掲げて、意識変革を後押しする

    ────"旧態依然"という社内の雰囲気は、当時の業績ともリンクしていたのでしょうか。

    リンクしていましたね。やっと昨年から業績が上向き始めましたので、4年かかりました。

    ────初代社長の時代にヘルスメーターを開発され、OEMメーカーから自社ブランドを築き上げてこられた過程では、ベンチャースピリットのようなものがおありだったかと思うのですが、時を経て風土が変わってきたということですか。

    おっしゃる通りです。弊社は下町にある企業でしたから、夢はやはり自社ブランドを持つことだったんです。それが叶ったことで、次の目標がなくなってしまったんですよ。

    一方で、予算が潤沢になって仕事を外注するようになり、自分たちで手を動かさなくなってしまいました。昔ならカタログ1枚ですら社内でつくっていたのが、今は外注先が持ってくる案に注文をつけるだけになって。そんなところから、風土が変わっていったのだと思うんです。

    ────そうした状況をどう打破しようと思われたのですか。

    やはり、次の目標をつくらなければいけないと思いましたね。

    ────事業の夢を描くということでしょうか。

    ええ。ただ、私自身は、そういったことはあまり重要視しないタイプなんです。トップが率先垂範して働く姿を見れば、周囲も動き始めるはずと考えていましたので、それだけでは動かない人たちもいることに、当初はあまり重きを置いていませんでした。それに、目標を持つといっても、既に落ちかかっている飛行機の中で3カ年計画や5カ年計画を作成するということが、私には考えられなかったんです。

    しかし、危機感の捉え方は人によって違い、目標がないと前に進めないという人もいます。社員と何度もやり取りする中で、そういったことを理解するようになり、やはり目指すものが必要だと感じました。そこで、「年間売上高1000億円」という目標を掲げました。弊社が好調だったときの売上高のピークが約300億円でしたので、それを通過点に設置して、「1000億円」を目指す」ことにしたのです。

    社員はこの数字をあまり信じていませんでしたが、私は本気ですので何度も繰り返し話しました。さらに、一昨年の年末にイベントも行いました。ちょうど本社の耐震工事兼オフィスのリニューアルをしていた時期で、内壁がまだ下地状態だったときに社員に集合してもらい、ペンを渡して「私とともに働いてくれる人は、この壁に自分の夢や目標を描いてほしい」と。「1000億円」を掲げたばかりなのに、「2000億円」と書く営業もいました(笑)。その後、壁は塗装されましたが、その下にはみんなが描いた夢が今も残っているんですよ。

    率先垂範を信条に現場の前線を走り続ける谷田社長ですが、ある出来事をきっかけにそのスタイルを見直されたと言います。経営姿勢がどう変化されたのか。後編では、谷田社長の人財観、経営観についてうかがいます。


    *続きは後編でどうぞ。
    人間が持つ「習性」を理解しなければ、社員の意識は変えられない(後編)

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