OBT 人財マガジン
2010.07.14 : VOL95 UPDATED
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株式会社久月
代表取締役社長 横山 久吉郎さん
【長寿企業研究】
時流に左右されずに本業を守る"貫く経営"(前編)『長寿企業特集』のシリーズ四回目は、創業天保6年(1835年)の人形問屋・久月の横山久吉郎代表取締役社長にお話を伺います。明治維新、関東大震災、第二次世界大戦と、たび重なる歴史の荒波をくぐり抜け、"人形屋"としてのご本業を守り続けてこられました。創業200年に迫ろうとする今、直面している少子化・人口減少の流れの中でも、本業を貫く経営姿勢にはみじんのぶれもありません。「時流に迎合せずに本物を守り続けることが、事業永続の秘けつ」と明言する横山社長に、伝統を守り伝えるための経営観を伺いました。
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久月総本店(画像提供:久月)
株式会社久月 ( http://www.kyugetsu.com/)1835年に雛人形問屋として創業。明治時代には古くからの商習慣であった掛け値販売を改め、競合他社に先駆けて正札販売を導入するなど時代の先を行く経営を展開し、創業以来黒字経営を続ける。1971には人形業界で初めてテレビCFの放映を開始し、久月の名前を全国に広める。2006年には台東区より「したまち TAITO産業賞」を受賞。
企業データ/資本金:3750万円、従業員数/132名、売上高/53億円(2009年7月期実績)KYUKICHIROU YOKOYAMA
1948年生まれ。1971年に大手都市銀行に入行。都内の支店に勤務した後、1974年に久月に入社。仕入れに予算管理を取り入れ、賃金体系に職能資格制度を導入するなど、経営を刷新。1995年に代表取締役社長に就任する。
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100年を超える"仕入れ"のスタイルにメスを入れる
────横山社長は、大手都市銀行でのご勤務を経て久月にご入社されました。事業を継承されるということは、早くからご決心されていたのでしょうか。
別な道を進むこともできるという思いもありましたが、一方では久月を継ぐのだという使命感のようなものは子どもの頃から抱いていました。そういう運命なのだろうなと。大学卒業後はアメリカに短期留学し、その後に銀行に入行しましたが、それも孫悟空のようなもので、父の手のひらの上にいるのだろうなという思いはありましたね(笑)。
────ご入社後は、どのような仕事を手がけられたのでしょうか。
入社してすぐ、仕入部というところに入れられましてね。我々の商売は「利は仕入れにあり」といって、仕入れを覚えることが一番大切なんです。仕入れに携わるのは私どもの中枢の人間で、当時いた中での最年長は私の祖父の弟。部長を始めとするほかの社員も、後に役員になるような者ばかりで、そんな中に私が入れられたわけです。名前だけは"次長"でしたが、部長と課長がすべてを握っていて入ろうにも入れない。そのころが一番辛かったですね。何しろやることがないんですから。
そこで、時間だけはたっぷりありましたので、仕入れ先をすべて洗い出して、年間にどのくらいの仕入れを行っているのかをチェックしたんです。すると、「昨年は10体注文したから、今年も10体くらいで」というような仕入れをしていた。前年が足りなかったとすると、「じゃあ、今年は12体くらいで」と。そうすると、今度は余ったりするわけです。そこに何の計算式もなかったんですね。
それを、例えば屏風屋さんなら屏風屋さん、台屋さんなら台屋さんを全部集めてみようと。そうすれば、毎年どの程度の数をつくればいいかが、割り出せるのではないか。その大枠をベースに予算をつくってはどうかと提案したのが、最初の仕事でしたね。
────"屏風屋さん"や"台屋さん"というのは、それぞれ専門の職人の方がいらっしゃるということですか。
そうです。例えば段飾りの雛人形でいいますと、段、毛せん、屏風、人形、お道具、桜橘、ぼんぼりといったものは、それぞれ専門の職人によってつくられます。さらに人形は、型から顔を抜いて目鼻を整える頭師(かしらし)、髪を結う結髪師...と担当が細分化されています。最近では、この分業体制も変わってきていますが、人形業界というのは今も昔も変わらず、家内制手工業で成り立っているのです。それを取りまとめて、「この段にはこの人形、この段にはこのお道具」とセットをつくるのが我々の仕事です。
────では、仕入れ先となる職人の方は、かなりのご人数に上られますね。
我々が接するのは全体を束ねる職人さんだけですが、私が入社した昭和49年当時でいえば、窓口となる方だけで150人近くはいたでしょうか。その先にはすそ野が広がっているわけですから、全体ではかなりの人数になりますね。とてもその全てをコントロールすることはできませんが、大元となる職人さんへの発注には予算を持つべきだ、と。そうすれば、欠品や過剰在庫をある程度調整できるはずだと提案したわけです。
────長年のやり方にメスを入れることに、周囲の反対はありませんでしたか。
それが、ある程度聞いてもらいましてね。社長の息子ですから、みんな聞かざるを得なくて了承してくれたのだと思いますが、とにかく予算制度を導入できた。そこで、仕入部は一年でやめることにして、次は総務部に行きたいと父に願い出たんです。
賃金体系を見直し、売り場の人員構成も改善
────なぜ、総務部を希望されたのですか。
銀行にいたからでしょうね。銀行時代に感じたことがいくつもありまして、まず考えたのが、なぜ銀行はこんなに儲かっているのかということ。私がいた当時は、銀行はえらく儲かっていたんです(笑)。よくよく考えてみると、銀行というのは優秀な人を採用しているんですね。私の周囲にも、国立大学や有名私立大学出身の優秀な人間がたくさんいました。その優秀な人財をこき使うわけですから、これは儲かるな、と(笑)。
では、なぜその優秀な人たちがそこまで一所懸命にやるのだろうと考えて思いついたのが、賃金システムによるのではないかということです。当時は号俸がありまして、一号俸が50円のピッチ。私の初任給が3万9000円だった時代のことです。昇給の時期になるとみんなこそこそと喫茶店へ行って、「お前はいくら上がった?」とやるわけです(笑)。相手が自分よりも昇給していれば悔しいですから、そういうような競争をあおるシステムが銀行にはある。それをどうにかして、当社にも導入できないかと考えたんです。それまでは、父が鉛筆なめなめ「あいつはこんなものだな」と(笑)。そういうような給与システムだったのを、銀行と同じように等級をつくって号俸を導入したわけです。
ただ、「4等級には早ければ3年、遅くとも6年で昇級する」といった規定を設けたところ、能力が不足している社員も6年で上にあげなくてはいけない。それが果たして正しいことなのかということに、運用している途中で悩みましてね。賃金システムを完全には理解していなかったんですね。その後、専門のコンサルティング会社に依頼して賃金システムをもう一度見直したものが、現在の体系になっています。
また、総務部と兼務して店舗の責任者も務め、本店の人員構成にも手を入れました。
────店舗にはどのような課題があったのでしょうか。
私ども節句人形の商売というのは、12月から4月の5カ月間に年間売上高の8割が集中します。つまり、繁忙期と閑散期の山谷が非常に大きいんです。雛人形と5月の節句人形の売り出し期間中は、毎日、深夜の12時、1時はあたり前で、休みを取るなんてとんでもない。今はもちろん労働基準法を遵守していますが、当時はそのくらい忙しかった。私なども5月5日が待ち遠しくて、本店の前の柳を見ては「あの枝がもう少し伸びれば、この忙しさもおしまいだ」と首を長くして(笑)。一方で、夏場はやることがなくてどうしようかと。それくらいの格差がありました。
そうすると、人員構成が問題になるわけです。百貨店の売り場ではマネキン(販売専門の派遣社員)を活用していましたが、浅草橋の総本店だけは正社員を中心に、補助はアルバイトスタッフで運営していたんです。久月の中心となる神聖な店だから、マネキンの方々が出入りすることで何か重要な情報が外に漏れてはいけないというんですね。
────競合他社に派遣された場合のことを危惧されたということでしょうか。
当社に来ているマネキンと、他社に派遣されているマネキン同士が仲がいいということもありますしね。今考えれば妙な心配ですが、浅草橋の総本店にマネキンを導入することには、社内から結構な反対がありました。しかし、当時私が部長職で、一緒にやっていた課長が「やりましょう」と賛同してくれて、二人で何とか役員を説得して導入したという覚えがあります。
老舗の伝統は強みであると同時に、弱みでもある
────改めてお伺いしたいのですが、ご入社された当時、会社の強みと弱みをどのようにご覧になられましたか。
久月の強みは、これは常々思っていることですが、資産を持っているということです。「久月」という名前、仕入れ先や小売店のネットワーク。これらは、非常に大きな資産であり、久月の強みです。しかし、それは同時に弱みでもある。それだけのものがあるがために、自由闊達に動けないわけです。「久月だから、業界のトップだから、これはやっちゃいけません」と。
────どのようなことが「やってはいけない」ことだったのでしょうか。
例えば、私が入社してまだ間もないころに、当社の近くに競合店が出店されましてね。5月の節句が終わると、夏場は着物を販売するなど、柔軟な営業をなさるわけです。私も、繁忙期と閑散期の山谷をどう埋めるかを考えていたときでしたから、「我々も、夏場の商材を何か考えないといけないのではないか」と、父に言ったんです。そうしたら、こう言われました。「考えるのはいいことだが、うちは人形屋だ」と。
その後もバブル時代に、周囲の経営者が「不動産投資でこれだけ儲かった」というのを聞きましてね。「そんなに儲かるならうちもやらなくては」と父に言ったら、また、「うちは人形屋だ」と。
────本業から外れることは一切なさらない。
そうです。ですから、当社は一切の投資をしませんでした。だから助かったんです。人形という一つのものに長年注力していることは私どもの強みだと、今も思っております。ただそれがゆえに、そう大きくなれない。父にはこうも言われました。「八百屋は八百屋。人形屋は人形屋だ」と。今考えれば、無理して大きくなろうと思うなということでしょう。ですから、当社には175年の歴史がありますが、大きくもなっていないわけです。けれども、事業は継続している。事業の継続を取るか、拡大を取るかは、それぞれのご判断だと思いますが、人形屋には人形屋の適正規模があるというのが父の教えだったのだと思いますね。
「うちは人形屋だ」という先代の教えには含蓄があると、横山社長は言います。少子化などの逆風も吹くなか、先代の言葉をどのように実践されているのか。後編では、横山社長の経営にかける信念を伺います。
*続きは後編でどうぞ。
長寿企業研究
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