OBT 人財マガジン

2010.04.07 : VOL89 UPDATED

この人に聞く

  • 株式会社船橋屋
    代表取締役社長 渡辺雅司さん

    【長寿企業研究】
    社員の力を引き出す"幸せの経営"(前編)

     

    不況が長引く中で、持ちこたえる会社とダメージを受ける会社は、何が違うのか。困難に社員一丸となって立ち向かう会社と、難題を前に士気を失う会社の分かれ道はどこにあるのか。『この人に聞く』では、企業存続の秘けつを探るために、今回からシリーズで『長寿企業研究』をお届けします。第一回目にご登場いただくのは、創業205年の歴史を誇る和菓子の老舗、船橋屋。江戸の昔から受け継ぐ『くず餅』の味を守り続け、昭和27年に法人化して以降、1期の赤字も出さずに成長してきた驚異の企業です。変化する時代の中で伝統を守り続ける経営の極意を、8代目当主・渡辺雅司さんに伺いました。

  • 株式会社船橋屋 http://www.funabashiya.co.jp/)1805年創業。下総船橋出身の初代勘助が、亀戸天神の参道に創業。出身地の地名をとり、屋号を『船橋屋』とする。独自に開発した『くず餅』は、葛粉を使う関西の葛餅とは違い、小麦粉を乳酸菌で発酵させたもの。厳選した小麦粉の澱粉質を450日間という長い年月をかけて発酵・熟成させてつくり上げる。保存料や添加物は一切加えないため、賞味期限はわずかに2日間。効率が優先される今の時代にあって、頑固なまでに『本物』にこだわり続けている。その味を愛して、亀戸本店には吉川英治氏や芥川龍之介氏らの文豪も通い詰めた。1952年に法人化、2005年には創業200年記念店舗『こよみ』 を東京・広尾にオープンし、新感覚の『和』のスイーツを展開するなど、伝統と新進を融合させた経営に取り組む。
    企業データ/資本金:2000万円、従業員数/160名、売上高/14億円(2009年3月末現在)

    MASASHI WATANABE

    1964年生まれ。1986年に大手都市銀行に入行。融資業務やディーリング業務、法人営業などを手がけた後、1993年に船橋屋に入社。専務取締役時代から、業界初となるISO9001の認証を取得するなど、伝統を守り続けるための経営改革に着手。2008年8月に代表取締役に就任する。

  • 銀行員時代に、経営の原点を見つける

    ────渡辺社長は、大手都市銀行でのご勤務を経て、船橋屋様にご入社されました。経営を継承されるということは、ご自身の中では早くから決心されていたのでしょうか。

    父は何も言いませんでしたが、「いずれ継ぐのだろうな」という自覚は子どもの頃からありました。ただ、そうであったとしても、外の世界を知っておくべきだというのが父の考え。ですから、私は本店がある亀戸には、生まれたときの3年間と結婚してからの2年間を除いては住んだことがないんです。小学校卒業までは千葉県・船橋市の自然の中で過ごし、その後は麹町と、亀戸からは離れた地域で育てられました。銀行に入行したのも、経済の流れを広く知るため。銀行ではさまざまな企業の案件審査も担当させていただきましたが、船橋屋は貸借対照表も損益計算書も、一度も見たことがなかったんです(笑)。

    銀行に勤務したのは、1986年から1993年というまさにバブル時代。最後の2年間は銀座支店に配属になり、銀座6、7、8丁目という日本で一番難しいといわれる地域を担当しました。今のようにブランドチェーンが入ってくる前の時代です。銀座がこれからどう生き残っていくかという仕掛けをいろいろとお手伝いさせていただき、もう楽しくて、日曜日の夜になると「今週は何を提案しようか」とワクワクしていました。

    その一方で、浮き沈みにもたくさん接しました。バブルの絶頂期から崩壊までですから、それはもういろんなことがありました。札束で相手を叩くようにしていた人が次々と消えていった。私は当初、『ヒト、モノ、カネ』の中で、『カネ』が経営の根幹だと思っていたのですが、これはどうも違うな、と。大切なのは商品である『モノ』であり、モノをつくる『ヒト』なのだということに、思いが至ったのです。ここで学んだことが、今の私の経営の原点につながっています。

    待っていたのは、親方が絶対の"職人の世界"

    ────そして1993年に船橋屋様ご入社されました。会社の第一印象は、どのようなものでしたか。

    ひと言でいえば、"職人の会社"ですね。工場には、昔ながらの職人さんがたくさんいまして、一番驚いたのは夕方の4時でも親方が「酒を飲もう」といったらみんなで飲み始めてしまうこと。「今日の仕事は終わったんだからいいだろう」というわけです。親方の言うことが絶対で、若手は黙ってついて行くという世界ですね。

    ────厳しい徒弟制度は、日本古来の伝統文化でもあるように思います。その職人世界のあり方に、問題を感じたということでしょうか。

    そうですね...。職人さんたちが、頑固なまでに昔ながらの製法を守り続けてくれているからこそ船橋屋の歴史があります。当社の社訓は、「売るよりつくれ」というもの。これは、初代勘助が残した言葉であり、利益の追求に走らず、こだわったものづくりをすることが、商売の永続につながることを諭した言葉です。社内に入ってみて、その伝統を実践し続けることの重みを改めて強く感じました。

    ただその一方で、今の慣習を続けたのでは、若手が自分の思考を奪われてしまうことになりかねないのではないかという危機感を抱いたんです。また、まだ今のように『食の安全』がいわれる前のことではありましたが、いずれ『伝統の製法』という以上のことが求められる時代がくる。船橋屋の伝統は守りつつも、工場の管理など、いろいろな面で近代化や合理化も必要になるのではないかということも、同時に感じました。

    古くからの取引先も、社員も、聖域を設けずに改革

    ────最初に手をつけたのは、どのようなことだったのでしょうか。

    新人の私が何をいっても耳を貸してもらえないと思いましたので、5年間は黙々と働こうと決めました。その間に現場にも積極的に出て、課題を自分なりに整理したうえで、5年後にまず手を付けたのは経費の削減と合理化です。具体的には、これまでおつき合いのあった業者さんとの関係をすべて見直していきました。小豆屋さん、砂糖屋さん、寒天屋さん、折り箱屋さん...と、戦前・戦後を通じて当社を支えてくださった業者さんがたくさんありましたが、残念ながら今もお取引を続けているのはわずかです。

    ────どういった観点で見直しをされたのでしょうか。

    例えば、砂糖や小豆の価格は、通常なら市場の変動相場で決まります。それが、バブル時代に高騰した価格のまま据え置きになっていたんですね。「価格を変動制にしてください」とお願いすると、「それでは安定供給できない」とおっしゃる。「他社の見積りも検討しています」とお話しても、「うちはできません」と。そこで苦渋の決断でしたが、お取引先を替えていったのです。

    私は銀行でバブルを経験しましたので、これからは大変な不景気がくると予想していました。『山が高ければ谷深し』、です。現に、銀行を辞める少し前から、経済は悪化し始めていました。そのディフェンスをどうするかということが、念頭にあったんです。当時はバブルの余熱がまだあった時期で、そこまで考える人は少なかったと思いますが、私には大きな危機感があった。ですから、一気に手を入れたのです。

    古くからの社員の中には、反発して退職していった人もいましたが、それもやむなしと受け止めました。もちろん、今も残って支えてくれている人もいます。当社は基本的には定年がなく、本人が「もう勘弁してください」というまで頑張ってもらうんです(笑)。今も、最高齢は70歳の社員が2人、頑張ってくれていますよ。

    "魂"のない仕組みは、ただの"箱"にすぎない

    ────当時の社長(7代目当主、渡辺孝至・現会長)とお考えがぶつかることはありませんでしたか。

    私から見た会社の現状と課題を伝えたうえでのことでしたので、会長も理解してくれました。それはありがたかったですね。進め方が厳しいのではないかといわれたこともありましたが、私にはこれからの時代の変化に対応する会社をつくりたいという強い思いがあった。ですから、取引先の見直しといった改革を進めていったのです。

    次に、現場の社員も経営に参加できる組織をつくりたいと考えて、2001年にISOの認証取得に向けたプロジェクトを立ち上げました。職人の勘がモノをいう伝統的な和菓子の製法でISOを取得するのは大変な挑戦でしたが、いくつもの困難を乗り越えて2003年にISO 9001の認証を取得。そして、これをきっかけに品質管理プロジェクトや高度衛生管理システムプロジェクトなどのプロジェクトを立ち上げ、組織を横断するチームによる全員参加型の経営に向けて動き出しました。

    しかし、見ていると、どうも参加している社員に元気がない。神輿でいえば"魂"が入っていない状態と言いますか、プロジェクトという"箱"はつくったものの、うまく機能していないんですね。なぜうまく回らないのだろうと、悩む日々が続きました。問題を確信したのは、社員活性化プロジェクトという3つ目のプロジェクトをつくったときのこと。メンバーから、「社員満足度が低い」という指摘を受けて、愕然としたんです。

    それまでも、手がけてきた改革に対する葛藤はありました。これで本当に正しいのだろうか、と。現に、社内も思うように活性化していない。眠れない夜が続き、どうにもこうにも窮したときに、私は、経営の根幹に関わる究極の答えを見つけたんです。これを機に私自身は大きく変わりましたし、会社も変わりました。このときに見つけた答えが、私の経営のすべての原点になっているんです。

    バブル崩壊後、どの企業も大きなパラダイム転換を強いられた時代に200年の伝統を受け継ぎ、今も未曾有の世界同時不況の中、経営の舵を取る渡辺社長。「経営の原点」と語るのは、どのようなことなのでしょうか。後編では、渡辺社長の経営観、人財観を伺います。

*続きは後編でどうぞ。
  長寿企業研究 ──社員の力を引き出す"幸せの経営"(後編)

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