OBT 人財マガジン
2008.11.26 : VOL57 UPDATED
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日本原料株式会社
代表取締役社長 齋藤 安弘さん
祖父の会社を「再生」させた、3代目社長の経営改革(前編)
カエルを水に入れてゆっくりと温めると、水温の上昇に気づかず茹であがってしまう──。ゆでガエルの法則さながらに、環境変化への対応が後手に回る企業はいまだ少なくありません。2009年に創業70周年を迎える日本原料も、20年前に齋藤安弘社長が入社した時点では、旧態依然とした体質が染みついていました。しかし、数々の施策を導入して組織の活性化に成功。祖父が興した会社を見事に「再生」させた日本原料代表取締役社長、齋藤安弘さんに改革のドキュメントを伺いました。
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日本原料株式会社 ( http://www.genryo.co.jp/)
1939年創立。初代社長、齋藤廣次氏により、ろ過砂の生産・販売会社として設立。1951年には日本濾過砂研究所を設立し、1968年には水道事業の発展に寄与した功績により、齋藤廣次氏が日本水道協会から有功賞を授与される。1970年に廣次氏が逝去し、妻である齋藤キン氏が2代目社長に就任。1998年に齋藤廣次氏の孫である齋藤安弘・現社長が3代目社長に就任。2002年に、ろ材交換の必要がない画期的なろ過装置「シフォン・タンク」を発表し、日本商工会議所会頭発明賞を初めとする数々の賞を獲得。齋藤・現社長が就任した1998年度の売上高10億4000万円から、2005年度の売上高25億2000万円へと、水処理のトータルプロデュース企業として右肩上がりの成長を続ける。
YASUHIRO SAITO
1962年生まれ。1986年に横河北辰電機(現・横河電機)に入社。1989年に日本原料に入社し、営業部、企画開発推進本部を経て、1997年に代表取締役社長に就任。数々の社内改革や新製品開発の陣頭指揮を取り、2007年には「文部科学大臣表彰科学技術賞 技術部門」の表彰を受ける。
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社員の平均年齢57歳。会社の時間は昭和で止まっていた
────齋藤社長は、創業社長の孫として26歳で日本原料に入社されました。それ以前は大手電機メーカーでSEをされていたそうですね。
そうです。大学卒業後は横河電機に就職し、定年まで横河電機で働くつもりでいました。ところが、2年目の終わりごろに祖母から「そろそろ日本原料に入社してくれないか」という話がきたんです。私自身は、日本原料が何をやっている会社かも知りませんでしたし、入社するつもりもまったくなかったのですが、1年間ずっと口説かれまして、最後には1枚の色紙を見せられたんですね。私が1歳の誕生日のときの写真が真ん中に貼られ、その横に「夢でもいいから20年」と書いてある。「これは、おじいちゃんが『早く孫に会社を継がせたい』という思いで書いた色紙だ」と。
祖父母には5人の子どもがいたのですが、すべて女の子で跡継ぎがいませんでした。だから、最初に生まれた男子の孫である私を跡取りにするというのが祖父の遺志だった。それを知って、「あなたにバトンタッチするために会社を続けてきた」と祖母がいうのを聞いて、気持ちが決まったんです。横河電機は私がいなくても問題ないけれど、この会社は私がいなければダメなのだとすれば入社しよう、と。
しかし、入社した当時の社員の平均年齢は57歳。横河電機では平均年齢が20代後半の若い職場にいたのが、日本原料に来たら年寄りばかりです(笑)。パソコンも、横河電機では1人1台が当たり前でしたが、日本原料には1台もない。電卓ぐらいはあるだろうと思っても、それもない。計算は、みなさんそろばんです。私は、そろばんといえば裏返してシャーッと走らせる遊びにしか使ったことがありませんでしたが(笑)、とにかく、みなさんそろばんなんです。
そして「まずは営業から」と営業部に配属され、「今日と明日の2日間をあげるから、これを全部計算しなさい」と分厚い書類の束を渡されたのですが、その当時あったポケット電卓というものでプログラムを組んで計算したら2時間で終わってしまったんですね。そこで「できました」と営業部長に持っていったら、「真面目にやれ」といきなり怒られまして、部長がそろばんで検算し始めるんですが、なぜか計算はちゃんと合っている(笑)。
それでようやく「お前はすごい」と感心されたわけですが、それは私の計算が速いからでも頭がいいからでもなく、2時間で済む仕事に2日間をかけるというスピードの中で会社が動いていたということ。これはすべてのことにおいてそうで、そんな会社に私は入社したわけです。
────大変なカルチャーショックですね。
カルチャーショックですよ。パソコンの1台ぐらいはないとまずいと思って稟議書を出しても、稟議に半年近くかかる。それも、「今のままで何の問題もない」という答えが当たり前のように返ってくるわけです。
しかも私は営業なのに、誰も「営業に行け」といわないんですね。お客さまのところに連れて行ってほしいと営業部長にお願いしても、「お客さんは困ったときにはうちしか電話するところはないんだから、呼ばれてから行けばいい」という。製品の開発も祖父の時代で止まっていましたし、製品カタログも昭和45年に刷った物がそのまま使われていました。平成元年に、製品カタログが白黒。ありえないですよね(笑)。
それに、社員の平均年齢が57歳ということは、3年経ったら大半が定年を迎えるということですから、これはどうにかしなくてはいけないと、若手の採用も会社に提案しましたが、それも通らない。何をいっても通らないんです。社長に直訴したら後でどういう扱いをされるかわかりませんから、それもできない。私は、入社したときから社内で煙たがられていたんです(笑)。今さら仕事のやり方を変えるなんてことはしたくないという人ばかりでしたから、異分子が入ってくること自体が嫌で仕方がないわけです。
ただその間ずっと、社内の問題点を毎日レポートでまとめるということは続けていました。そして、テレビ局勤務で定年を控えていた伯父に見てもらっていたところ、私が入社した年の11月に伯父が副社長として当社に入ってくれることになり、企画開発推進本部という部署をつくってくれたんです。そこに配属されてからですね、やりたいことができるようになったのは。
約20年ぶりに新卒採用を再開するも、全員が1年以内に退職
────まず、どのようなことから手をつけていかれたのですか。
新卒の採用です。といってもバブル時代ですから、どこも青田刈り状態です。仲良くなった就職情報誌の営業マンにも「広告を出してもお金を捨てるようなものですよ」といわれるような状況でした。中途採用も、80万円かけて転職雑誌に1ページの求人広告を出しましたが、応募してきたのは1人でした。そうすると、面接ではなくてお願いになるんですね。「今、入社してくれたら、必ず役員候補になれます」みたいなお願いをして、入ってもらうわけです。
そんな中途採用をしながら、新卒者をどう採用しようかと考えていたら、就職情報誌の営業マンから、そこが出す就職情報誌は東北6県の専門学校にだけは送らないという話を聞いたんです。地元志向が強い学生が多いから、東京や大阪の会社が載っている媒体を送っても仕方がないというんですね。それを聞いて、「ここだ」と。ここが私の行くところだと思って、その営業マンから東北と北海道の専門学校のリストをもらい、自分で全部回ることにしたんです。
まずは北海道までダーッと車を走らせて、東北6県の専門学校を隈なく、生徒が7人ぐらいしかいない山奥の経理の学校も回りました。それでも、先生に会社説明をしようとすると、新聞か何かを読みだして全然聞いてくれないわけです。
────ひどいですね。
そんな学校ばかりですよ。「先生っ!」とすがってみたり、土下座してみたり。いろんなことをしましたね。
────何校ぐらい回られたのですか。
当時で80校近くありました。それを年に3回、約3週間かけて全部回りました。そうしたら3年目にようやく、6人の新入社員を東北の専門学校から迎えることができまして、約20年ぶりに新卒採用をスタートさせることになったんです。
────1年目、2年目の採用はゼロだったのですか。
ゼロです。
────途中で、もうやめようとは思われませんでしたか。
私にはもう、東北しかありませんでしたから(笑)。いくら地元志向が強いといっても、クラスに1人か2人は花の都・東京で働きたいと思っている学生が必ずいるはずだから、その学生をつかまえてこようと決めていたんです。といっても、学校を訪問するにも2色刷りのカタログじゃダメですから、会社案内を新しくつくったり、会社のロゴもつくったり。そういうことも、全部やりました。
────では採用した6人の方々は、大切な新入社員でしたね。
大切ですよ。パソコン研修やマナー研修もしましたし、「水道水ができる仕組み」といったことも教えました。その当時には「私の提案制度(※)」という制度を導入していましたので、「会社の中でおかしいと思ったことを、何でもいいから書きなさい」と、会社に対する提案も書かせました。
※私の提案制度:年齢や社歴を問わず、会社にさまざまなことを提案できる制度。提案者には最低100円から最高50万までの報奨金が支給される。現齋藤社長が、前職の横河電機の制度を参考に導入した。
そうしたら、みないろんなことを書いてくれたんです。この人たちは大切にしよう、これで世代交代も進むと喜んで各部署に配属したら、その途端に提案がパタッと出なくなったんです。聞けば、「書いても上司に捨てられる」という。「『若い人で会社を作っていこう』なんて、齋藤さんがいったのは、全部嘘じゃないですか」と。「そんなことないよ」と、提案を拾ってきては本社の部長会や取締役会に出したけれども、その場では社長や副社長の手前、「あれ、見逃していたかな」などといって部長たちも持って帰るフリはするけれど、実行されるのはその10分の1程度です。
そんなことが続いて、新入社員は1年以内に全員辞めていきました。4年目に採用した人も、みんな1年以内に辞めました。部長や課長には外部の管理職研修も受けてもらいましたが、研修から帰ってきたそのときは「私たちが間違っていたよ」などというんですが、3日目には元に戻っているんですね。
これはもう、ダメだと。私自身、何をやっているのかわからなくなってきたんですね。そして、この人たちが定年で会社を去るまでは社内改革はできないと、いったんあきらめて、コンピュータのシステムを整備したり、新しい開発のネタを考えたるといったことに主軸を移して、そういう仕事を自分でし始めたんです。
不慮の事故により、会社存続の危機を迎える
それが入社4年目のことでしたが、そんなある日、神奈川県の浄水場で当社の作業員が亡くなる事故が起りました。ろ材の洗浄工事中に、クレーンで吊り上げた重さ1.5トンの砂の袋の紐が切れて、下にいた作業員を直撃したんです。その方は、即死でした。知らせを聞いて浄水場に飛んで行ったら、警察も労働基準局も来て大変な騒ぎになっているのに、当時の工事部長や総務部長は「こんな事故は経験がないから、私の仕事ではない」という。そして「お前が対処しろ」といわれて、平社員の私がいきなりその担当になったんです。
この規模の会社が社員の死亡事故を出したら、会社は潰れる。その程度は私も常識としてわかっていましたので、知っている弁護士の先生に電話をして「会社が潰れるのは仕方がないけれども、今、私にできることは何でしょうか」と聞いたところ、「ご家族やご遺族に、どれだけ誠意を持って接することができるか。それだけを考えろ」といわれました。
たまたまその方は独身でご家族はいらっしゃらなかったのですが、ご兄弟姉妹が北海道から沖縄まで8人おられたので、まずはその方々のところを車で回って東京に集まっていただき、事故の報告から始まって、お葬式をしてお墓を建てて納骨まで、警察や労働基準局や浄水場への対応もしながら、アシスタントにつけた当社の新入社員2人と、不眠不休でできるだけのことはさせていただきました。
そして最後の日に、「私たちにできることは終わりましたが、ほかに必要なことはございますか」と伺ったんですね。示談なんてことはさらさら思っていませんでしたので、これからどんな裁判が始まるのだろうと考えていたわけですが、「この1カ月間、君は非常によく頑張ってくれた。われわれとして君に望むことは、もうないんだよ」といっていただけて。しかし、「ただ1つ、いいたいことがある」と。「君がこの会社の跡取りだということはよくわかっているから、もう2度とこういう事故が起きない会社にしてほしい。それだけが望みだ」と。そして、「この場で示談書をつくれ」といわれて、8人全員が判を押してくださったんです。
その一方で、そんな事故が起きたわけですから、工事部員はバタバタと辞めていきました。けれども、私が会社に戻ってきたときに、一緒に動いた社員の何人かが、私とならもう1度この会社を立て直せるかもしれないといってくれたんです。「だから、一緒にやらないか」と。これが今思えば、会社の中での初めての私のカリスマ性だったわけですね。
でも、こんな事故を起こすような会社は存続すること自体が社会悪であり、潰してしまったほうがいいと思っていましたから、迷いました。ただ、そうでない会社にできるなら、もう1回やってみようと。そこでもう一度、軸足を社内改革に移していくことになったというわけです。
あるプロジェクトの成功をきっかけに、社内が活性化
ただ、そんな事故があったからといって、年輩の方々の意識が一気に変わるわけでもなく、なかなか新たな局面を迎える方向にはいかないんですね。そうした中で、会社はもう1つの課題、自社工場の売却問題というのを抱えていました。これが今思えば、社内を活性化する大きなきっかけになってくれたんです。
福岡に1万2000坪の自社工場があったんですが、そこが「海の中道 海浜公園」という国営公園の計画地になっていまして、昭和20年代から買い上げの話が当時の建設省からきていたんです。それを当社だけが最後まで売らないと頑張っていたので、ついに強制収容だということで「1万2000坪を4億円で買い上げる」という通達がきた。でも、建設省とのやり取りなんて社内の誰もしたことがない。そこで、「この案件の担当になれ」と私が任命されたわけです。
しかも、取締役会は「8億円で売ってこい」という。ともかく行ってみるしかないと、すぐに福岡に飛んで建設省の担当者と話したところ、1万2000坪のうち当社が砂を採掘して池になっているところが6000坪ぐらいあって、その部分の評価は普通の土地の1/4から1/5になることがわかったんですね。そこでやっと、ああ、そういうことかと。それでうちの取締役たちは「8億円」といったのかと、事情が飲み込めたわけです。
それなら、話は簡単です。「砂は売るほどありますから、明日にでも池を埋め戻します。だから1万2000坪として評価してください」とお願いしたわけですよ。そうしたら、建設省の担当者は、「それは困る」というんですね。その池には鴨が生息していまして、そのまま「カモ池」として公園の名物にするんだという。「それを埋めてしまったら、鴨はどうなるのか」と。それはないですよね(笑)。
「池としての使い道があるなら、ちゃんと評価をしてほしい」と主張しまして、しまいには「もうこうなったら池の鴨をとっ捕まえて、工場の前に鴨料理の店を開きますよ」なんてことまでいって(笑)。「『10億円でも20億円でも、とにかく高く売ってこい』といわれてるんです」と交渉を続けていたら、その担当者がまたいい人で「それなら、工場の撤去費用や新工場の建設費用の見積もりを持ってきなさい」とアドバイスしてくれるんですね。
いわれるままに資料を提出するうちに4億円が6億円になり、最終的には11億7000万円で話をつけました。その間、取締役会には8億からは1円も上がったとはいわずにおいて、「11億7000万円になりました」と報告すると同時に、「ついては差額の3億7000万円で、やらせていただきたいことがあります」と、ある企画書を提出したんです。
茨城県の高萩に祖父が建てた工場があるんですが、東洋一のろ過砂の生産工場なのに、昭和45年から何の整備もされていなくてボロボロだったんですね。それをリニューアルして、夢のようなオートメーションの工場にしたいという企画書をつくって、取締役会に提出したわけです。そうしたらみんな、8億円しか想定していませんでしたから、「それはいいことだ」とポンと許可が下りたんです。
────8億円に上積みできた分で高萩工場をリニューアルするというのは、福岡工場の売却交渉の段階から考えておられたのですか。
最初は考えていませんでした。でも8億円が9億円になり10億円になるうちに、「この差額を何かに使おう」と思い始めたんです。高萩工場をきれいにしたいというのは以前から考えていたことでしたので、ならばその費用をこの九州であげられるかなというのが、私の目標になったわけです。
高萩工場の社員は年輩者ばかりでしたが、工場がきれいになることをすごく喜んでくれました。そこで、「一緒にプロジェクトを立ち上げましょう」と呼びかけてリニューアルの希望を聞いたところ、「古くなったショベルローダー(砂利の運搬機)を買い替えて、事務所にエアコンをつけて、工場の屋根の雨漏りが修理できればそれでいい」というんですね。それでも、全部で8000万円程度。まだ2億円以上残ります。なのに、「もう十分だ」と。「お前のおじいちゃんがつくった生産設備が一番なんだから、残りは役員会に返して来い。そうすれば、無駄使いしない立派な跡取りができたとほめられるぞ」というんです。
でも、私が思い描いていたのは「夢のような工場」です。原材料を放り込んだらあとは全て機械がピピッと自動的に処理して製品がパパッとできる、そういう工場がイメージだったわけです。方や、みんなは祖父の設備が一番だといって譲らない。そこで私も、「プロジェクトは解散します」といって東京に戻ってきちゃったんです。
そのときは、これは私1人でやるしかないかなと思ったのですが、さすがに工場を1人でつくるのは無理です。誰かいないかなと社内を見回したら、新人と入社2年目の若手がちょうど10人残っていた。その10人を集めて、「夢のような工場」といわれて何をイメージするかと聞いたら「材料を入れれば、機械がパパパッとふるい分けて、製品がダダダダーと10種類くらい自動的に出てきて......」という。そのイメージが、私とぴったり一緒だったわけです。ああ、こいつらだ、と(笑)。
早速、翌日にその10人でプロジェクトを新たに組んだのですが、そうしたら役員たちが怒りだしましてね。「砂もつくったことがないようなやつらに、3億円を使わせるわけがないだろう」と、今度はプロジェクトを解散させられそうになったのですが、そのときに最初で最後、祖母が「役員会で一度許可したことだから、やらせなさい」と援護してくれたんです。
そこで10人の若い社員と一緒に「さあ、工場をつくろうぜ」ということになるわけですが、みんな砂なんかつくったことがないから、ふるいの角度や回転数がなぜそうなっているのかといったことが、まったくわからないんですね。工場の社員に聞いても、「そんなものは、20年経ってから聞きに来い」と、誰も教えてくれないわけです。
────しかし、工場をよくするためのプロジェクトですよね。
みんなにとっては祖父の機械が一番ですから、リニューアルして工場がよくなるなんて誰も思っていないわけです。ですから、手を変え品を変え、です(笑)。「○○さんのつくった砂は、どうしてこんなにきれいなんでしょうね。これだからうちの会社は、お客さまから信頼があるんですよね」というと、「そうだろう。これは、この角度からふるってるからなんだよ」と話してくれたりね(笑)。
酒を飲みに行っても、とにかく褒めて褒めて、そうすると少しずつ教えてくれるんですよ。それをみんなでメモして、機械メーカーに伝えて設備を設計してもらうといったことをしながらつくっていったわけです。
平成5年にプロジェクトを立ち上げて、新工場が完成したのは平成7年。生産量は2倍になり、生産コストは30%下がって、生産部員は35名いたのが10名でできるようになりました。プロジェクトが成功したことで、強い思いやバイタリティさえあれば、経験や知識がなくてもできるんだと、若い社員に自信がつきました。最初は冷ややかだった工場の社員たちも、「こいつら、すごいものをつくったな」と思ってくれたと同時に、「自分たちのノウハウが、21世紀の形としてできあがった」と喜んでくれた。新工場には、みんなの経験や知識がきっちり反映されています。それはやはり、ものすごくうれしいことだったのだと思うんですね。
この成功体験を通して、若手と年輩の社員たちとの世代間のギャップが消えて、1つの目標に向かう一体感が初めて芽生えました。これを機に、うちの会社はいろんな制度を導入するようになりましたし、数多くの特許を取って新しい製品ラインナップも揃うようになった。このプロジェクトが、その後に続くすべてのスタート地点になったんです。
心から願い続けたことは、必ず叶う
────プロジェクト成功に至るまでの、ご入社されてからの7年もの間、さまざまな難題を乗り越えてこられた社長の原動力は、どこにあったのでしょうか。
私は、子どものころから追い込まれないと動かないところがあるんですが、追い込まれると強いんですね(笑)。物事から逃げないといいますか。この会社にしても、私に継がせるのが祖父の夢でしたが、継いだ私が会社を潰してしまったのでは、夢の実現になりません。少なくとも祖父の時代以上の会社につくり上げることが私の使命で、それが一つの大きな目標としてある。やるべきことが明確なら、その過程で問題が起きてもそれは解決すればいいわけです。そういうところは、意外と強いんですね。
もう1つ、何か問題が起きたり何かに困ったときには、私を助けてくれる人が必ず現れるというのが、私の一番の幸運なところなんです。私の人生はすべてにおいて、周りの人からの恩恵によって成り立っているんですよ。
────幸運を呼び寄せる秘けつは何でしょうか。
心からそのことを願っているかどうか、だと思います。私は、父から「願ったことは必ず叶えることができるが、そのためには強く思い続けなくてはならない」と教えられたんです。本当にそうだと思いますね。24時間、潜在意識の中でも考えて無意識の行動にも表れるくらいに思い続けているかどうか、ということなんだと思います。
────幸運をあてにせず、何においても社長ご自身がまず行動を起こしておられることも大きいように思います。
そうですね。ただじっと座っていてもダメで、アンテナを張り巡らして、アンテナの向きを変えたり場所を変えたりしながら、誰かひっかかってこないかなと動く。それは大事だと思いますね。
────幸運に恵まれているとはいえ、うまくいったことが10あるとすれば、うまくいかなかったことも同じくらいあったのではないですか。
ありますね。ただ、そういうことはどんどん忘れていくんですよ(笑)。
高萩工場のリニューアルプロジェクトの成功により、会社を見事に活性化させた齋藤社長は、新制度の導入や新製品の開発など、会社の未来をつくるための一手を次々と打ち出します。そこには、明確な理念にもとづく経営者としての揺らがない軸がありました。後編では齋藤社長の組織観、人財観を伺います。
*続きは後編でどうぞ。
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