OBT 人財マガジン

2008.03.12 : VOL41 UPDATED

この人に聞く

  • 大須商店街連盟
    会長 小野 章雄さん

    商店街を再生した人と組織の力とは(前編)

    かつては賑わっていた商店街に、次々とシャッターが下りる──商店街の空洞化は、問題視されるとともに時代を象徴するものとしても語られてきました。長引く消費不況や他の商業施設の進出といった外部環境の変化に打ち勝ことはできないのか。自組織の内部環境を変え、活力を取り戻すにはどうすればよいのか。商店街の再生に見事成功した、大須商店街連盟の会長、小野章雄さんに伺ったインタビューを3回シリーズでお送りします。

  • 大須商店街http://www.osu.co.jp/

    1612年に大須郷(岐阜県羽島市大須)から移転した大須観音の門前町として発展。戦前は名古屋一の繁華街といわれる。しかし戦後の大規模都市計画により周辺に幹線道路が敷設されて陸の孤島と化し、オイルショックの影響も受けて深刻な客離れに見舞われる。1978年に始まった大須大道町人祭の成功を契機に活気を取り戻し、昔ながらの店と若者向けの店が共存するユニークな商店街として発展を遂げ、現在では空き店舗ゼロを誇る。大須商店街連盟は1955年の設立。現在は8つの商店街振興組合の369会員が加盟する(2007年6月1日現在)。

    AKIO ONO

    1948年生まれ。1991年に大須商店街連盟常任理事に就任以来、1996年に専務理事、2005年連盟会長に就任し現在に至る。

  • すべては、町興しのイベントから始まった。

    ────大須商店街は、戦後、シャッター街と化した時期があったと伺っています。その状況から、どのようにして商店街を再生されたのでしょうか。

    大須観音。東京の浅草観音、三重の津観音と並んで、日本の三大観音の一つともいわれる観音霊場。地元の人々からは「観音さん」と親しみをこめて呼ばれ、平日でも参拝客が絶えない。

    大須は、古くは寺社仏閣の門前町として栄えた街です。大須の地名にもなっている大須観音が、今でいう岐阜県の羽島市からこの地に移されたのが1612年。そのほかにも、徳川家康の名古屋城の築城とともに、いくつかの寺社仏閣が大須に移されてきました。その門前町として大須は400年近く、非常に栄えてきました。

    ところが戦後、経済の発展とともに、物を並べているだけでは売れない時代がきた。オイルショックの頃には、大須は一番ひどい状態に陥りました。もう、まったく人が来ない商店街になってまったわけです。一つには、大須には映画館が非常に多かったということもあります。戦後のテレビの普及とともに、映画館に来る方が少なくなったということです。ただ、映画館というのは建物だけは大きいわけです。それが次々と閉じて、暗くシャッターを下ろしていく。今の大須には映画館は一軒もないんですが、当時はそういう時代でした。

    それに加えて、戦後の大規模都市計画により、100メートル道路といわれる大通りが大須の周辺にできまして、繁華街の栄地区と完全に分断された。大須地区に入ってきていた市電も廃止になりました。さらに、栄地区や名駅地区に新たに地下街ができて、お客様は新しくてきれいな地下街に行かれるようになった。大須は閑散とした状態で、人がまるっきりこない状況になりました。

    その時点で、何をやるべきかということになって始めたのが大須大道町人祭というイベントです。一番肝心なのは、いかにお客様に大須に来てもらえる街にするかということなんですね。人が来なければ、いくら良い物を並べても売れないわけですから。そのために何ができるかというとハード的な施策はお金がかかりますから、イベントしかなかったわけです。大須大道町人祭は昨年で30回目を迎えましたが、大須が活性化して今があることの一番象徴的なものは、この祭りだろうと思います。

    ────発端は、昭和50年に地元の大学の先生が企画したイベントだったそうですね。

    ※現在は大須商店街連盟に次の8つの振興組合が加盟し、大須大道町人祭は連盟主催のイベントとして行われている。(画像提供/大須商店街連盟)
    正会員/万松寺通商店街振興組合、大須新天地通商店街振興組合、名古屋大須東仁王門通商店街振興組合、大須仁王門通商店街振興組合、大須観音通商店街振興組合、大須門前町商店街振興組合、大須本通商店街振興組合
    準会員/赤門明王商店街振興組合

    そうです。「アクション大須」といいますが、そのイベントが大須大道町人祭の前身的なものになります。当時大須地区の中に、名城大学の先生が代々やっている、今でいうコインバーみたいな店がありまして。大須が非常に悪い時期だったもんですから、ある助教授の先生と名城大学の学生さんが、大須を何とかしようということでイベントをやってくれたわけです。

    こちらとしては、人がまったく通らない状況ですから「どうぞご自由にお使いください」ということで行ったものが、反響が非常にあった。それをきっかけに、大須大道町人祭が始まったということです。最初は各通の協力もなく、「反響があるなら自分たちでもやろう」と、若い人だけで始まったお祭りでした。その1回目が大成功だったことで、商店街全体としてやるようになったわけです。

    大須大道町人祭の実行委員長は再任禁止。
    未経験者を登用し、人材育成につなげる。

    ────具体的には、イベントがどのように商店街の活性化につながったのでしょうか。

    大須大道町人祭には実行委員長は再任できないという決まりがあり、毎年新しい人に委員長をお願いしています。これは、なるべく若い人にお願いして人を育てようということなんですね。経験を積んだ人のほうがイベントが成功する確率は高いわけですが、それ以上に人を育てることを重視しようと。

    祭りをやるには警察、消防など各所への許可申請が必要ですので、委員長になればいろいろなところへ出向くことになります。また、人前で話すのも嫌がるような方も、実行委員会では50人、60人の委員をまとめるわけですから、リーダー的なことも自然と身に付くわけです。

    ────人選はどなたがされるのですか。

    基本的には私や専務理事が見ていて、そろそろお願いしてはどうかとい方に声をかけるという形ですね。日ごろから積極的に意見を言ったり、いろいろなアイデアを出すような方にお願いをしています。

    新しい委員長は、祭りの打ち上げの席で「来年は誰」ということを発表します。ですから、祭りが終わった時点で来年の委員長を主導に動き出すということになる。そこから一年かけて次の祭りが終わるころには、新しい委員長も立派にリーダー的な人間になっているんですね。それが大須の一番の活性化につながっているのだろうと思います。

    大須大道町人祭は昨年で30回を迎えたとお話しましたが、とういことは、大須には30人の実行委員長経験者がいるわけです。実際には、夏祭りや春祭りといったほかの祭りもやっていますから、その実行委員長経験者もいる。それが、大須の力になっているんだろうと思いますね。

    大須大道町人祭の一場面。一般公募で選ばれた女性による「おいらん道中」や、商店街内約20カ所に設けられた特設ステージでの大道芸やパフォーマンスは、今や名古屋名物の一つとなり、30回目を迎えた2007年の開催では、30万人を超える動員に成功した。(写真提供/大須商店街連盟)

    ────しかし、未経験者の方に実行委員長を任せることにはリクスがあるのではないですか。

    イベントは一人でやるものではないですからね。過去の実行委員長経験者がフォローしながらやりますから、失敗するということはありません。逆に、人が変われば考え方も違うし、いろんな新しい企画も出てきますから、新しい人にやってもらうことがイベントの成功につながるんだろうと思います。

    また、人をまとめあげるという経験をすることで、人というのはすごく変わるんですね。その後も連盟の事業に積極的に協力してくれるようになる。これはもう、協力度が相当違います。リーダーを経験すると、苦労がわかるわけです。だから、次の方にも協力できる。そういうことが一番大事なのだろうと思います。

    傍観者を作らない運営で、地域の団結を強める。

    ────何かを運営するときにはとかく意識の高い一部の方だけが動いて、あとの方は「おんぶに抱っこ」という図式が生まれがちですが、大須ではそういった風潮もないのでしょうか。

    そういうこともないですね。昔は、今の年輩の人たちが主力で頑張っていたわけですが、今は若い方が主力になってくれていまして、年輩者は補助的な役割です。まずは、若い方を信用して任せるということが大事ですね。信用してやらなかったら誰も頑張ろうとは思いませんから。

    また、いかに話し合いをして物事を進めていくかということも大事なんだろうと思います。大須商店街連盟の会員数は約370会員に上り、その中から10軒に1軒の割合で連盟に常任理事として参加してもらうという形で構成されています。会議は月に1回必ず行い、そこでいろんな話し合いをしながらイベントやその他の事業計画を進めていくわけですが、進め方の一つとして必ず部会を作るということがあります。

    例えば今、商店街の中にある露天の広場(ふれあい広場)に屋根をかけることを計画しているんですが、ハード的なことについては、ハード事業の部会を作る。そして、それに合わせてソフト面の企画ですね。ただ屋根を作るだけではいけないわけで、広場に大須の案内人を置いてはどうかと。そういったことは、ソフト事業の部会を作って検討してもらう。また資金のことがありますから、それは資金計画の部会でやってもらう。そして、関係各所への申請や交渉を担当する渉外の部会も作りまして、4つの部会が個々で話し合って、それをまとめあげるという形で進めています。

    大事なのは、いかにみんなに役割を持ってもらうかということなんですね。自分に役割があれば、事業に対する意識も違います。一部の幹部だけでやっていのでは、みんなの関心も薄くなる。けれども、部会を作って役員はどこかに入るということにすれば、必ず何かに関わることになるわけですね。そういうことによって意識がすごく高まりますし、また、自分たちで考えて作り上げたものだという達成感も生まれる。みんなで協力してやっていこうという雰囲気も生まれます。意識的にそういう風にしていくことが、すごく大事なんだろうと思いますね。

    ────一般には、組織の規模が大きくなると意思統一が難しくなるといわれますが、その点についてはいかがですか。

    これだけの組織になってくると、いろんな考えはあって当たり前ですね。私どもは、月に1回の定例会議を設けているわけですが、意見が何も出ず、議事進行通り進んでいくというのは、どうかと思います。いろんな意見が出て、ときには意見と意見が対立しても、そのことで結果的には一つにまとまっていくんだろうと思うんです。

    ですから、ただ報告を聞くだけの会議では意味がないわけで、せっかく時間を作って集まるわけですから、そこで物が言える雰囲気がないといけない。最終的には多数決で決める場面ももちろんありますが、そこで意見が言えずに不満が溜まったまま帰るというのではまずいですね。意見を口に出して言ってもらえば仮に考えが通らなくても、それなりの納得はしてくれるだろうと思います。

    また、説明するということも大事ですね。何回も説明をして、理解をしてもらいながらやっていく。いろいろな意見があったとしても、大須を良くしようという最終点は一緒です。では、誰がそれをやってくれるのか。自分たちの街は自分たちでやらないと、誰かがやってくれるわけではないわけです。だから、そういうことを絶えず私は言うわけですね。「放っておいたら駄目になるんだよ」と。意見はさまざまにありますし、決める過程ではいろいろあるとしても、目的は一緒なんです。

    ────「大須を良くする」とは、具体的にはどのようなことを目指されているのでしょうか。

    やはり、いかにお客様に大須に来てもらえる街にするかということです。ただし、街づくりを云々するために何かを誘致するといった働きかけは一切しておりません。お客様が要望するような店が自然と増えていき、お客様のニーズに合った形で街が自然とできていくものなんだろうと思います。ですから、何かの店を誘致して街を無理に作り上げるような考えは、まったく持っておりません。

    ですから、商店街連盟の役目は、いかにお客様に来てもらえるな商店街にしていくかということなんだろうと思います。その意識を強く持って、絶えず新しいことに挑戦をする。物事はやらないことが一番マイナスであって、まずはやることが大事です。やってみて2割でもいいことがあれば、それは2割成功したということ。やらなければゼロです。今がいいからといって安心していると、お客様にはすぐに飽きられる。何事にも積極的に取り組んで、絶えず新しいこととやるという考えを持つことが大事だろうと思います。

    昭和40年代後半には、「生きていた街がぼろぼろになった」とすら言われた大須商店街は、今では、平日で3万人、休日は5万人の人々が訪れる、活気ある商店街へと再生を遂げました。「物事はやらないことが一番マイナス」という精神が、どのような活動を生み出したのか。中編では、大須商店街連盟の事業の実態に迫ります。

*続きは中編でどうぞ。
  商店街を再生した人と組織の力とは(中編)

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