OBT 人財マガジン
2012.02.22 : VOL134 UPDATED
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思いとは何か!
これまで仕事を通して、たくさんのビジネスマンに関わってきて、そこには思いの無い人、志の低い人等をたくさん見てきた。この種の人たちに共通している点は、自分の生き方が確立されていないので、物事を主体的に考えたり、新しいものを創造することも出来ない、ましてや環境を変えること等が出来ないということである。生き方が確立されていないと、将来の可能性を描くことはおろか、自分の頭で考えること自体が出来ない。そのために、自分の生き方や自分の在り様の全ては、取り巻く環境によって決定されるという、いわゆる環境決定論的な考え方に支配されている。多くの人間は、現実に対して2つの観点を持って生きている。ひとつは、客観的な観点である。それは、自分を取り巻く政治経済の動き、マーケット、市場動向、そして顧客の動き等がある。もうひとつは、その客観的な観点が自分にはどのように見えるのか、そして、その状態を自分はどうしたいと思うのか等、自分にとっての意味・価値といった主観的な観点である。客観的観点では、取り巻く環境を適確に把握するための論理的思考や分析力等々が、とても大事になってくる。一方で、主観的観点とは、自分は何のために生き、何のために仕事をし、一体何をやりたいのかという思いからすべてが始まる。論理的思考や分析力というのは、学習さえすれば誰でもある程度は出来るようになるが、それはあくまでも形であり、形式的なものの追求であるため、その人の生き方を問われることは全く無いし、意味も思いも問わない。その為、最終的には"こうしたい"という主観的観点は、自分で導き出さなくてはならない。また、厄介なことにその答えは企業によって組織によって、ひとつひとつ異なるのである。つまり、客観的な視点と実際にやれることの間の距離は思った以上に遠いのである。また、自分の生き方や自分の在り様の全ては取り巻く環境によって決定されるという、いわゆる環境決定論的な考え方は本当に正しいのだろうか?確かに、世の中には、思うに任せないものが数多く存在する。景気動向や市場の構造等、我々を取り巻く外部環境がその代表的なものであろう。しかし、その環境に対して能動的に働きかけ、環境そのものを変えていこうとアプローチする人もいる。働きかけや能動的なアプローチというのは、思いや志には規定されることは間違いない。思いや志のある人は、目線が高い。目線が高い人は、新しいことに挑戦し、新しいものを生みだして行こうとする意思が強いので、難しいことや困難なことに積極的にチャレンジしていこうとする。そして、チャレンジするプロセスの中で自分を成長させる契機を自らで作りだしていくのである。そういった人たちは、普通の話をしていても必ずひとつ高い視点で見解を述べる。また、何時も心の中で何か物足りなさを感じているのだ。例えば、ここは自分の居場所ではない、これで終わってはつまらない、だから次のことを手がけたいと、常に満たされないものを持っていてそれが原動力となっている。また、志の高さというのは、他人に対する責任感の大きさのようなものである。それは、単に物を見る視野が広いという意味ではなく、そういう責任感の強さ、弱さが経営改革等といった極めて難易度の高い仕事に、敢えて取り組もうとすることの基盤にあるように思える。自分は一体何をやりたいのか、そもそも自分は一体何のために生きているのか等といったことを自らに問いかけ、悩む中で次第に自分の生き方を確立していく。性格的な熱さみたいなものや高い志というのは、個性みたいなものだから、単純に教えるというわけにはいかない。しかし、企業として、ポテンシャルのある人になるべく大きい場を与え、経験や体験を積ませて思いを持った人財を育てるということは出来る。個人の生得的なものとして片づけずに、組織として育てるということに取り組むべきであろう。然しながら、嘆かわしいことに自分の生き方を持たないまま、どこかの論理を振りかざすのみで、リスクも責任も負わないビジネスマンやリーダーの何と多いことか。まさに、「意見はあっても意思は無し」である。リーダーは、常に原点に立ちかえり「誰の為に」「何のために」我が社は存在するのかといったテーマを自問し続けなければならない。