OBT 人財マガジン
2011.03.23 : VOL112 UPDATED
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「自己利益のためにだけに生きる人間」と「不利益を顧みず他人の為に
仕事をする人間」の違いとは!東日本大震災の影響で、ガソリンやコメなどの品不足が深刻化しているようである。心理にかられた「買いだめ」で品薄感に拍車がかかっているのだろう。首都圏でも消費者の買いだめなどにより、品不足が目立つ。東京のガソリンスタンドによれば、「買いだめしようとする客が多く、給油のみならずタンクを用意してきてこれにも入れてほしい」と求める人もいるとのこと。この種の人達は「自分さえよければ症候群」でみんなが大変な中でも自分だけは助かりたいと。「このぐらいならいいだろう」と自己保身に走ることは非常に多い。買いだめに多くの人が走る。買いだめする人を見て「自分もしておかないという不安な心理に陥り、買いだめする。そういう連鎖反応があっちこっちで起きているのであろう。それはある意味、生物としての本能なので仕方がないのかもしれない。そもそも人間というのは、正義とか志、或いは公益等と頭でいくらわかっていても、自己愛や自己保身に走ることはたくさんある。どんなに世の中が変化しても人間だけは大昔から大した変わってない。例えばどんなに立派な先祖や両親を持っていたとしても本人も立派かといえばそんなことは全くない。財産や名前は引き継げても精神や心までは継承出来ないのである。人間でも企業でもソロバン勘定に合わないことはやらず合うことだけをやる。それが普通の経営手法であり、最近の言葉でいえば、効率経営ということになる。然しながら、損得勘定というのは、現在までのことであって将来という意味では、それはあまりあてにならないことが多い。何故ならば、世の中やビジネスというのは、ソロバンで弾いた通りやってくるわけではないし、将来は得てしてこちらが考えた通りにはやってこないというのが一般的である。今、効率的と思ったことが将来は、極端に非効率に変化することもありえるし、その反対に今の非効率が将来の効率に変化することも十分あり得る。例えば、買い占めに走るという行動は、今は当人達にとって非常にプラスであろうが、反面、もう一方で買い占めに奔走している親の姿を子供は見ている。子供は親の背中を見て育つものである。親が言行一致を貫かない限り、いかに立派な話をしても子供はその通りには育たない。「非常時には止むを得ないと他人のことを考えないような行動」は、自分の甘さを正当化しているだけであって、このような親の下では、子供も極めて気が楽かもしれないが、親がそのような心構えでいる限り、長期的には子供がきちんとした倫理観のある人間として成長しないであろうことは自明の理である。首都圏に暮らす我々でも、本当に買いだめする必要があるのだろうか?ガソリンが不足して輸送トラックを動かすことが出来ないということも大きな要因としてはあるだろうが、だからといって買い占めや買いだめをしていたら物不足は一向に解消されないであろう。被災した人達のために募金する一方で、買いだめによって生活必需品や救援物資が被災地に届かないという現象は、何かが根本的に違っているのである。我々が本当に被災地のために何が出来るかと考えるのであれば、被災者でない我々は必要な物を必要な分だけしか買わないということから始めるべきではないだろうか。そして、今この時間にも震災地や原発の現場では、命がけで日本を守っている人達がいるのである。恐らく、ご家族とは「もしもの時はという話をしている」ことは間違いないであろう。自分の不利益を顧みず他人のために仕事をする、そして非常に困難な状況においても、他人のために立ち向かえる気概と行動力には、ただただ頭が下がるばかりである。人間が動物と違うのは、感激や感動を伴う経験をし、目に見えない部分のリターンを享受してこそ人として成長を遂げるということではないだろうか。こうした体験を積み重ねることによって、人は優れた仕事をするようになる。災害現場で、日々命を賭けて仕事をしている、自衛隊、警察官、そして消防士の人たちに対して、改めて我々は強い尊敬の念を抱くのである。一方で、自己利益のためだけに買い占めをする人たちがいて、その一方で命をかけて他人を守ろうとしている人達がいるという事実を我々は心から直視すべきであろう。「自分達さえ良ければという自己利益的な考え方」は、「未来のこの国の最適さ」や「子供達の未来の最適さ」には決してつながらないということを、今こそ我々は本気になって考えるべき時にきているのではないだろうか。