OBT 人財マガジン
2009.10.28 : VOL78 UPDATED
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モノが売れない、モノが売れても儲からない時代、これまでの経営の限界!
日本経済の低迷、日本の閉塞感は、金融危機や経済サイクルの中の低迷期といったものではなく
社会の根本的な方法論の変更を問われているのである。
振り返って見ると、20世紀の後半50年間によって、我々が獲得したものは一体何だったのか?
また、喪失したものは一体何だったのだろうか?
端的に言えば、獲得したものは、暇であり、失ったものは、ハングリー精神であろう。
暇という言葉は、何となく怠け者のように聞こえるがそういう考え方自体が生産至上主義時代の意識といえる。
忙しいことで、自分に納得したり、自尊心を持ったりはしない。
手帳に予定をぎっしりと書き込むことで自己満足したりはしない。モノがテーマではなく,コトがテーマの時代、モノは具体的な存在であるが
コトは時間との関係性の中で発生する出来事である。
物質ではなく、時間であり、時間の中での人間の振る舞いが重要となってくる。
これまでは、個人的な時間の使い方はあくまでも余暇であり、余暇を上手に使うことによって
仕事即ち生産労働の時間を活性化させることに意味づけられてきた。
余暇は、あくまでも生産のための補助手段であった。
しかし、これからは「自分の時間」が従ではなく主体になる時代である。時間をきれいに消費することが、高級ブランドを身にまとうより、おしゃれな時代になってくる。
経済的な見返りのない労働のことを暇つぶしと呼ぶ。工業化社会は、社会システムを全体的な立場から合理的に考え、個々人の生活を支援し
無駄を排除することが目的であった。
そうした方法論の完成に向けて人間は持てる英知を結集してきたのである。成熟化した工業社会とは、「生産・消費/モノヅクリ」のための社会の上部構造に生産とは無関係な
「時間消費/コトヅクリ」を許容する時代となろう。
「遊びのような仕事」「仕事のような遊び」という、生産と消費が一体となった
或いは労働と余暇が一体となったライフスタイルがベースとなる社会だろう。
虫歯も市販の内服薬で完治するようになるらしい。歯科医という仕事は将来なくなるのではないか。
暇とは、物理的な時間の余裕ではなく、精神的な余裕である。
「量の時代から質の時代へ」という言葉は使われていても、現在の社会システムは
「量の時代を運用するためのシステム」であって質の時代には対応出来ていないのである。
量の時代は、大量生産・大量販売でマスマーケットを目指していたが
質の時代は、一人一人の個人をしっかり捉えながら行うものであって、その市場は極めて小さいものである。
例えば、病気は多種多様であり、質の医薬を追及する限り大衆薬にはならない。
個人の問題を個人で対応出来ないのなら、社会全体で負担しなければならない。
質の時代における社会の在り方とシステムの構築が求められるのである。質を追求するということは、ユーザー一人一人の顔が見えるところまで近づいていくことであり
それは結果的に市場を狭く限定することになる。
社会の大きな流れは、そうした質を望む時代を要求している。
例えば、暇つぶしのコンテンツの最たるものが携帯電話である。要は単におしゃべりをするという領域である。
現在、この領域を使用しているのは、主に学生ばかりであろう。サラリーマンや主婦は友人が少ないので、この領域を利用している人達は少ない。
したがって、サラリーマンや主婦に友人が増える仕掛けやインフラを作れば自然と電話のお喋りは増える。例えば中高年向けのカルチャーセンターを作れば、そこでは、中高年同士の交流が始まるから
必然的に連絡を取り合う必要性が生まれてくる。
要は人々のコミュニケーションの土壌を育成することに注力すべきであって
結果的にそれが通信料を回収出来ることに結びつくという発想が求められる。
地球が無限でないように市場も無限ではない。
「モノが売れない、物が売れても儲からない」というのが、今、日本社会が直面している最大の問題である。
これは、これまでの企業や製造業の限界であり、もはやこれまでの単なる企業
単なる製造業では生き延びられないという問題提起でもある。
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