OBT 人財マガジン
2009.06.10 : VOL69 UPDATED
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組織内の意思決定で生じる集団の愚考!
エドワード・オズボーン・ウィルソンという社会生物学者がいる
ウイルソンは元々蟻の研究をしている学者だった。
彼の蟻の社会に対する観察とその分析力から発表される論文はとても高い評価を得ている。
その論文のひとつに、ウイルソン氏は、「ミツバチ、シロアリは一匹ずつだと
頭が良くないのに集団になるととても高い知性を示す。
これと全く逆なのが人間であって個人個人は賢いにもかかわらず、集団になるととても愚かな行動をとってしまう。そして蟻の行動様式は、
DNAによるもの、また、人間の行動様式も同様にDNAによるものである」と。
この分析は極めて当を得たものといえる。
例えば、昨今世情を揺るがしている西松建設の巨額献金事件。
先般、同社は"内部調査結果"を公表。報告書によれば、「企業統治の機能不全、隠蔽体質や上層部の指示に従う社内風土等、
重要判断を意のままに下し、誰も異議を唱えられない状況であった」
と前社長を厳しく批判している。然しながら、前社長を名指しで厳しく批判しているものの、この状況を
放置していた他の役員や幹部達は一体何をしていたのか
という疑問がおおいに残る。
前社長が業務範囲を私物化し、重要判断を意のままに下していたとしても、
この異常な組織の在り方に対し、他の役員が反対や異議を唱え、
その職を賭けてでもこれを止めさせるような行動を起こさなかったのか、組織としての正しい意思決定の在り方に修正するべく何故、執拗な
働きかけをしなかったのか等、これは、報告書に記載されている企業統治の
機能不全やコンプライアンス意識の欠如等といったレベルの代物ではなく、
会社の経営を担う役員として経営幹部としての自覚の欠如、
職務怠慢以外の何ものでもない。
ただ単に、我が身にふりかかるリスクを回避していたに過ぎない。要は、幹部が本来のやるべきことをきちんとやっていなかったということに尽きる。
企業というのは、通常、当たり前のことをきちんきちんとやっていれば、
よほどの不測の事態でも生じないかぎり、このような不祥事や業績の悪化等
という状況には至らないのである。西松事件ほどではないにしても、組織の中には、自覚の欠如、
職務怠慢等が日常的に山積している。
例えば、実力トップの意向に過剰に迎合するあまりに本来の役割や職務を
十分に遂行していない所管部門等世の中における非常識が
まかりとおっている企業や組織等はことのほか多い。
次々と発生する企業の不祥事、何故不正やトップの暴走を
止めることが出来ないのだろうか。
意思決定というのは、何時でも一定の合理性の枠内でなされる。
つまり、意思決定に加わり決定を支持し実行するする人々が属する組織の論理や価値基準に沿って下される。
この合理性を「参考合理性」という。
これに対して、外部が持つ論理や価値基準は「外部合理性」と呼ばれる。企業組織の参考合理性というのは、目的論的に機能するので、目的が
設定されると分担が決められ、目的を達成するための行動が実行に移される。
従って、その組織が目指している目的と矛盾する意思決定を創りだすのは参考合理性から見て矛盾することになるので非常な難易度を伴うのである。
米国の心理学者、ソロモンアッシュは長さの違う3本の線を並べ、
別に示した線と同じ長さのものを6人が順番で選ぶという実験を行った。
実は最初の5人はサクラ、その5人が意図的に全員一致して誤った答を選ぶと、残った一人は1/3の比率で5人に同調する答を選んだ。
これは集団圧力と同調行動といわれる現象でこれが「上司・部下」という
上下関係がある場合は、一段とその圧力が強まる。
そんな集団心理の落とし穴を防ぐために「一人でも違う意見を述べれば、
同調圧力はかなり弱まる」といわれている。閉じられた集団の中で
社内の常識がやがて世間の常識と
大きくかけ離れていく怖さを十分認識しておく必要がある。評論家の山本七平氏は「空気の研究」で
「日本では一旦空気が出来てしまうと皆そっちの方に行ってしまう。
戦争がいい例である。」そして、論理のプロセスを巧妙に操作してしまい
自分に都合のいい「似非論理」をどこからか調達する。
日本人が集団として大きな間違いをする時は必ずこのパターンであると。
直感的思考を論理で検証する際も、それが自分だけに都合のいい論理になっていないか検証して見る必要がある。
冒頭のエドワード・オズボーン・ウィルソンの「人間は集団になると
とても愚かな行動をとってしまう」というDNAが強く存在することを組織内で
意思決定を行う際には、十分留意する必要がある。
将来、振り返ったとき、「一体何を考えていたのか?」「何故、
誰も正しいことをやらなかったのか?」「全く彼らは何をやっていたんだ!」等
といった後悔や批判を浴びるということは枚挙に暇がないほど存在している。
"我々は、ただただ間違えたことを一生懸命やっていたに過ぎなかった"
という結果にはしたくないものである。