OBT 人財マガジン
2009.03.11 : VOL63 UPDATED
-
自由経済の思想は守るべきか?
歴史に大きく残る大金融危機に遭遇してきちんとした経済運営を行うためには、
金融バブルの行きすぎを阻止すべしといった国家の関与を支持する主張も盛んである。例えば、現在のプーチン政権のロシアの如くであろうか。
昨今の米国で検討されている自動車業界や金融機関を救済するという行為は、
本来は市場のメカニズムで決定される価格や資源配分を是とする市場経済のセオリーと真逆の現象を生じさせ、本来は倒産すべき企業が生き残るという事象である。その一方で日本では、官から民へ即ち"官僚主導"から"民間主導"といった流れも存在する。
例えば、日本の郵政事業や道路公団の民営化等はその代表的なものであろう。国家による関与が妥当なのか民間による市場メカニズムに基づく経営が正しいのか
非常に難しい問題である。
然しながら、極めてはっきりしていることは、病院或いは老人介護施設等に象徴される事業を
本当に市場メカニズムによる経営に委ねておくべきなのか非常に疑問が残るところである。
この種のものをアダムスミスの"見えざる手による市場メカニズム"で経営して
本当に生産性が高いといえるのだろうか?
市場メカニズムということは"医者が患者の治療をどのように効率的に行うか"
"患者の診療をいかに早く、生産性を上げて行うか"だけが問われるということになる。"人命を""弱者を"単なる"儲かる儲からない"といったことのみを基準として対処すべきものだろうか?
医療だからといって、血税を何らの工夫もなく垂れ流していいと主張しているわけでは決してない。
然しながら、医療でも、老人介護でも、郵政でも、道路公団でも、いずれの事業であってもその
本来の目的は、"いかに国民のニーズに応えていくか"ということが最大の使命ではないだろうか。
本当の公益とは、公共心からではなく私的な利益の追求の帰結として実現されるものなのであろうか。
政府の事業が、民間よりも非効率であっていけないのだろうか。
それはあまりに稚拙すぎた考えと言わざるを得ない。
我々は何をもってして"生産性が高い""生産性が低い"と議論しているのだろうか。本来、安全、安心、心を癒す等といった行為は、非効率的なのである。
非効率的であるが故に価値が高いのである。すべての判断基準は、"そのことは国民のニーズに合致しているのだろうか"
"国民が幸せになるのだろうか"ということ問いかけることである。"人命を営利のみに委ねる""介護を私人の利益のみに任せる"という考え方は単に弊害をもたらすだけである。
公益であれ、私的な利益の追求であれ、単なる金儲けのためだけであろうか。
すべからく"人間あってのものだね"だし、"人間のために人間をやっている"のであって、
単なる"金儲けのために人間をやっているのとは訳が違う"のではないだろうか。いずれにしても今回の金融バブルもすべからく自由経済の行きすぎた思想の典型といえる。