OBT 人財マガジン

2011.09.14 : VOL123 UPDATED

人が育つを考察する

  • 第二回【仕事を極めた人の成長プロセス-前編】
    どんな戦闘に行っても、俺は最善を尽くし、絶対に帰ってきた

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      日本最高齢現役パイロット
      財団法人日本飛行連盟
      名誉会長 高橋 淳さん(88歳)

       

      "年を取ったら特にオシャレになれ!って言いたい"と語って下さったのは、ピンクのシャツがよく似合う88歳にして現役のパイロットの高橋淳さん。
      "楽しいこと、人を喜ばせることが好き"と笑顔で話して下さった高橋さんですが、第二次世界大戦では、数々の死線をくぐりぬけてこられたそうです。現在ではフリーのパイロットとして活躍中。若い人からは『飛行機の神様』と呼ばれています。

    • 【プロフィール】

      高橋 淳(JUN TAKAHASHI)

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      1922年生まれ。1941年海軍飛行予科練習生として、海軍に入隊。一式陸上攻撃機のパイロットとして従軍し、周りの仲間が戦死するなか、唯一の生き残りとなる。戦後は、フリーのパイロットとして、航空測量や斜め写真撮影、機体のテスト飛行、遊覧飛行やメディアの仕事など幅広くこなし、また、パイロットをトレーニングする教官業も行っている。現在、社団法人日本飛行連盟名誉会長を務め、航空スポーツに尽くした人に贈られる国際航空連盟の「ポールティサンディエ」賞を受賞。
      著書に「淳さんのおおぞら人生、俺流」(イカロス出版)。

    • 初めから"ダメかも"なんて思うってことは、最初から負けてるんだよ。

      小学校の2・3年の時から、模型飛行機が大好きで、組み立てキットを買って作ったり、竹ひごで自ら作って飛ばしたり、勉強そっちのけで飛行機に夢中になっていた日々。そして、小学校5年生の時に初めて、飛行機に乗せてもらい『僕は飛行機乗りになる』と、心に決めたそうです。

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      当時、飛行機乗りになるには日本の海軍の航空隊(現海上自衛隊)、陸軍の航空隊(現陸上自衛隊)、そして、民間の3つしか道がなかったそうです。しかし、その頃、ちょうど日本は徴兵検査があり、20歳になると2~3年軍務をしなければいけない。高橋さんは、どうせ軍隊に入るなら、最初から入って飛行機に乗ろうと考えたそうです。「でも、僕は根っからの軍人ではないからね。だから、3~4年したら、辞めて民間に出ようと思ってたんだよね。そしたら、入隊したとたんに太平洋戦争が始まっちゃってね、辞めるどころの騒ぎじゃなくなっちゃったんだよ」と高橋さん。

      予科練(※)に入隊した高橋さんですが、実際に飛行機を操縦できるのは4分の1程度。あとは、操縦士の適性がないと判断されると、偵察員、無線通信士、機関銃士などに振り分けられるそうです。

      ※予科練:海軍飛行予科練習生の略で、少年を集めて海軍のパイロットや偵察員などの搭乗員を養成する制度。

      高橋さんは、適性検査に合格し、一式陸上攻撃機のパイロットとなります。一式は翼の大きさが25メートルと大きな機体で、通常7人(偵察員や無線通信士等)で乗るのですが、高橋さんが戦地に出る頃には、人が少なくなってきてしまい、5人で出撃したそうです。

      しかも、当時まだ21歳で訓練生上がり、コ・パイ(副操縦士)の経験もない高橋さんが、いきなりキャプテンになり、搭乗員4人を乗せ、戦地へ飛び立ちます。高橋さんの指示で全員が動く、責任は重大。「"だから、もうどんな戦闘に行っても、俺は絶対に帰ってくるぞ"と思って飛び続けたね」と、高橋さん。昔の軍隊は、敵を攻撃し、最後には体当たりして、向こうの船を沈め、靖国神社に祀られるのが名誉と教えられた時代。しかし、高橋さんは「僕は軍人精神に反していたかもしれないけど、どんなことがあっても帰ってきた。最善を尽くして帰ってくるつもりだった。だから、一緒に乗っている連中にも"お前ら遺書なんか書くなよ、絶対どんなことをしてもお前らを連れて帰るから"といい聞かせたね。だって、攻撃に行くのに、今日はやばそうだな...なんていってるやつは絶対に帰ってこない。最初から負けてる」と、高橋さん。戦地では、いつの間にか、心がおかしくなっていく...。死ぬことが当たり前になってきてしまうそうです。そのため、少しでも機体がやられると、「敵艦に突っ込んでやる」という気持ちになってしまう。しかし、高橋さんは「僕は、そこまで心がやられてなかった。俺は絶対に負けない。乗ってる人間達をみんな無事に帰してやるって気持ちだったよ。」

    • 自分が最善を尽くすから運が付いてくる。待ってたって運はこないよ。

      一式陸上攻撃機は大きいだけに、一番攻撃を受けやすいそうです。

      特攻隊というのは、とにかくそのまま体当たりですが、一式に乗った高橋さんたちは艦船を沈めるために爆弾や魚雷を落とし、また、基地へと戻ります。しかし、敵に見つかれば下から雨が降ってくるみたいに弾丸が飛んで来る。そこを弾丸をかわしながら攻撃しなくてはいけない...。そこで、弾丸を避けるために、普段では絶対に行わない危ない操縦をするそうです。こういった時に一番重要になるのは、冷静であること。「僕は常に70~80%で飛んでるよ。もう、それはいつでもそうですよ。余裕があるから100%が出せるわけでしょ。弾丸が飛んで来たとき、そん時が100%だよ。それまでに、余裕があったからこそ正しい判断ができる。パイロットでも、普通の仕事でもいえるけど、特に飛行機乗りなんてパニックになったらダメですよ。最後に100%が出せるようにしておかないと。その100%のレベルは皆違うけど、経験も違うし。でも、本当にこれ以上やることがないって思うまで全ての力を出すことを100%っていうんだ。それでやっぱり運がよかったからね。ただ運っていうのは、待ってて来るもんじゃないから。自分が最善を尽くすから運が付いてくる。待ってたって運はこないよ。って僕は思ってる」と、高橋さん。

      そして、高橋さんの"運"を手伝ったものの一つが「ハンガートーク」だったそうです。

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      ハンガーとは飛行機の格納庫のこと。操縦のマニュアルなんかはまったくない時代、戦闘で弾丸を避ける危険な操縦方法などは、格納庫で先輩たちと夜一杯飲みながら、「弾丸を避けるときはこうしないと避けられないぞ」と教わり、自分と仲間の命を守るために、普段からいざという時のためにイメージトレーニングや練習を欠かさずしていたそうです。「そういうのが一番身になるわけよ。偉い人が来て、話をされても寝ちゃうよね。でも、実質的になんかやってた人の話しならみんな真剣に聞くでしょ。それと同じですよ」

      高橋さんへ戦争体験から学んだことはなんですか?と質問したところ

      「やはり、精神的な強さだね。僕は弾丸の中、何回も潜って、それで養われたと思う。だから、今の若い人より僕のほうが精神的に強いと思うよ。たぶん。それから、僕はパイロットだから、飛行機の操縦テクニックだね。だから、どんな気流が悪くて、飛行機がどんな格好になっても直せる。それに、僕は戦争中の真っ暗闇のなか、なんにもない中で飛んでたから、今はGPSだなんだってあるけど、なんにもなくても僕は飛べる。どれが故障しても心配ない。想定外なモノを戦時中ではいろいろ経験しているからね。だからね、僕の人生にとっては非常にプラスだったわけですよ。いい意味にとってだけどね」。

      高橋さんは取材中、終始笑顔が絶えませんでした「僕は嫌いなことは忘れる方なの。先の楽しみを考える。だって過去は戻ってこないもん。楽しいことだけ思っていればいいじゃん」と。自分が苦労したこと・辛かったことは語らない。これは高橋さんのポリシーだそうです。

      後編では、プロのパイロットとしての考え方をお聞きしました。

    取材を終えて・・・


    現代では、今日死ぬかも...なんて、考え日々を生活をている人はそう多くはないと思います。

    しかし、若干20歳前後の高橋さんは毎日が"死"と隣り合わせ。そんな過酷な状況下でも、『俺は絶対に帰ってくるぞ』と強い精神力を保ち続けていました。では、なぜそんなにも強い精神力を保ち続けることができたのでしょうか...。

    それは、"守るものがあったから"だそうです。同じ飛行機に乗り、一緒に戦っている仲間。仲間を絶対に守る。死なせはしない、という思いが誰よりも強かったのだと。

    今回のお話から、私たちが学ぶべきことは、自らに課す、また、背負うものがあることで、人は強くなることができる。そして、一度課したものに対して、最後まで諦めずに貫くことで成長する。

    "ダメかも"なんて思うってことは、初めから負けてるんだよ"高橋さんの言葉が、胸に刺さります。


    *続きは後編でどうぞ。
      第二回【仕事を極めた人の成長プロセス-後編】死ぬまで進歩したい