2011年11月アーカイブ ..

株式会社ダイシン百貨店
代表取締役社長 西山 敷さん

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    信じるのは、自分のものさし。
    徹底的なリーダーシップで拓いた企業再生の道(後編)

     

    刺身は3切れから販売し、太巻き寿司は1切れずつ小分けにパック──ダイシン百貨店は、住民の高齢化が進む東京都大田区大森の地で、高齢者に優しい店づくりを徹底し、『半径500m圏内のシェア100%』を目指す老舗企業です。年間約400万人が買い物に訪れる同社ですが、今から7年前、2004年に資金繰りの悪化が判明して倒産の危機に直面。経営再建にあたったのが、建築設計事務所から転じた異色の経営者、西山 敷社長です。経営危機をどう乗り越え、売り場に活気を取り戻したのか。企業再生の道のりと西山社長の経営観をうかがいました(聞き手:OBT協会 及川 昭)。

  • [及川昭の視点]

    経営リーダーに必要な直感的能力の重要さ

    直感というと一見ヤマカン的印象があるが、リーダーには、データの分析からでは得られない非論理的なものの積み重ねから生まれる構想力や判断力が非常に重要となる。
    所詮、理詰めやロッジック等で勝てる事業は大したことはない。それだけでは勝てない時が必ず来る。本当の勝負はそのロジックの限界点から始まる。
    数値化された科学的確率といえる分析データは守りには活用出来るものの、そこからの将来は全く生み出せず、未来に向けての構想には全く不向きといえる。
    その場、その瞬間ごとに自分の感覚や判断によって鋭敏に察知していかなければならない。
    それは、様々な修羅場的体験等を通して積み重ねられたものが判断や意思決定の物差しとなっている。
    ダイシン百貨店を再生した西山社長は、まさにこのような経営リーダーとお見受けした。

    聞き手:OBT協会  及川 昭
    企業の持続的な競争力強化に向けて、「人財の革新」と「組織変革」をサポート。現場の社員や次期幹部に対して、自社の現実の課題を題材に議論をコーディネートし、具体的な解決策を導き出すというプロセス(On the Business Training)を展開している。

  • 株式会社ダイシン百貨店 http://www.daishin-jp.com/
    1948年に、創業者の竹内義年氏が長野からリンゴを売りにやってきた大森で株式会社信濃屋を創業。戦後の高度成長の波に乗って事業を拡大し、1964年に株式会社ダイシン百貨店に商号を変更。1992年に竹内義年氏が死去し、後を継いだ長男の竹内洋一氏も2004年に死去。この時点で洋一氏による無理な拡大路線がもたらした財務悪化が発覚し、同社は一転、倒産の危機に直面する。設計事務所の所長としてダイシングループの店舗設計・建設も手がけていた西山 敷氏が役員として経営に参画し、2006年に代表取締役社長に就任。資産を大幅にリストラし、品揃えやサービス、在庫管理などを強化して業績をV字回復させる。現在は営業を継続しながら建て替え工事を実施中。2012年夏にグランドオープンを予定している。
    企業データ/資本金:9690万円(グループ合計)、売上高/60億円(平成22年度実績)、従業員数/社員100名 契約社員50名 パート100名

    HIROSHI NISHIYAMA

    1947年生まれ。大学卒業後、建設会社を経て、大手スーパーチェーンの長崎屋に入社。ショッピングセンターの開発や、フランチャイズチェーンの開発に携わる。1977年に株式会社商業建築計画研究所(現・株式会社商業建築)を設立。数多くの商業施設の建築設計を手がける。2004年に株式会社ダイシン百貨店の取締役に就任。2006年に創業家の株を買い取り、名実ともにトップとして代表取締役社長に就任。著書に「"下町百貨店・ダイシン"はなぜ、不況に強いのか」(講談社)。

  • 「みんなで楽しくやろうぜ」が、経営の原点

    ────店の規模を必要以上に大きくしないという西山社長のお考えに、僕はとても関心があります。大きくしようとすると、効率ばかりを追って、本当にやりたかったことができなくなるように思うんです。

    ですから僕は、経営者としては失格かもしれませんね。商店のデカイのをつくって、みんなで楽しくやろうぜという考えですのでね。例えば、今年は韓国への仕入れ旅行に、社員を20名ほど公募で連れて行くんですよ。費用は、半分は会社が出すけれども、半分は一年ローン。自費です。昨年は社員のほかに、お客さまや問屋さんもお誘いして、島根県へのツアーを企画しました。なかなか、一度には連れて行けないじゃないですか。お金もありませんしね。だから、こうして工夫してみんなで楽しくやろうぜと。

    社員の誕生会もそうです(※)。女性と旨いものを食べて、仕事に励む。これが僕のパターンなんですよ(笑)。ですから、社員にもフルコースを食べさせて、プロのミュージシャンに生演奏してもらって、無礼講でチークダンスしてね。みんなもそういう文化をたしなめと。誕生会にはお客さまも招待するんですが、余剰金がでたらみんなで食っちゃおうというのが僕の考えなんです。

    ※ダイシン百貨店では毎月、その月に誕生日を迎えた社員を招待し、店内のレストランで誕生会を開いている。

    「それよりもボーナスを上乗せしてほしい」という人もいるけれど、それはあまり好きじゃない。格好いい言い方をすると、みんなで連帯感と帰属意識を持って楽しもうということなんです。2号店をつくったら、こういうことはでません。運営をマニュアル化しないと、店を維持できない。すると、どんどん冷たくなって、「マニュアル通りにやればいいだろう」という人ばかりになるんです。

    経営の継承後、5年間は人事改革を封印

    ────企業再生の主役はリーダーのリーダーシップだと冒頭に言われたことは、その通りだと思いますが、これから先を考えたときの主役は何だとお考えですか。

    それが今のうちの課題ですね。社員は、僕に聞けば全部回答してくれると思っているんです。今の社会は、若い人も含めてほとんど指示待ちですよ。コンプライアンスも含めてそういう風につくってきちゃったから、自分で判断しないようになってるんです。

    ただ、僕は5年間は人事改革できないと思っていますので、改革はこれからです。なぜかといえば、今のダイシンには僕が採用した人は一人もいないわけですよ。社長に就任したときも、誰も僕を認めませんでしたしね。僕に挨拶もしない社員もいました。それはそうですよ。1年半前は設計事務所にいて、こき使われていた方なんだから。それが突然やってきて、社長だと言うわけですからね。そこで、「俺に挨拶をしないやつはクビだ」と宣言したんです。

    ────誰がボスなのかを、ハッキリさせるということですね。

    それが一つと、挨拶もできないヤツに、何ができるんだということです。

    ────それはとても大事なことですね。普通の人が普通にやることができなくて、何ができるんだと。

    商売のコツといったいわゆるビジネスは、一年生と十年生との差があるのは当たり前じゃないですか。一年生もいずれ十年生のレベルになるんです。そのときに、基本的なことが曲がったままではまずいなと思うんですよ。

    今年、初めて20名の新卒を採用しましてね。彼らが僕の子分です。僕の思想を徹底的に伝えていきます。来年は50名を目標に採用予定です。いわゆる新陳代謝ですね。30年も40年もやってきた人の考え方を変えるのは無理なんですよ。それはもう仕方がない。だから、若い人たちを教育して、彼らがそれをどう身につけてくれるかということを考えているんです。

    我がままに──自分のままに生きてきた人生の集大成

    考えてみれば、僕の人生は相当わがままな人生で、それはやはり母が常に「お前の思うようにやれ」と言ってくれたことが、一つのベースになったように思いますね。それに、僕は子どものころから気に入らないとすごかったらしくて、モノが欲しいとなったら道路に座って動かない、左利きを矯正するために右手で箸を持たせたら、何日も飯を食わない。僕はもう覚えてないんだけれど(笑)。

    ────気に入る、気に入らないの基準は、何かあるんですか。

    やはり、自分の価値観でしょうね。だから、自己中心ですよ。昔、長崎屋に入社したときも、入って半月も経たないうちに、母校の大学の研究室が30日間のヨーロッパ旅行を計画して、友人が「西山、行こうぜ」と。給料が4万円くらいのときに、30万円くらいかかるんですよ。そこで、長崎屋の重役に談判したんです。「30日間の休みと、30万円を貸してくれ」と(笑)。

    ────休みはわかりますが、借金まで(笑)。

    そうしたら直属の役員が、銀行出身の人でしたが、「わかった、30日の休みをやる」と。「お金は銀行に言っておくから、部長に頼んで借りてもらいなさい」と、そこまで言ってくれましてね。でも部長は、「お前にそんな責任を持たせられない」と。そのときちょうど、全米を回る社員旅行があったんです。功労者が招待される旅行でしたが、「それにお前を行かせる」と(笑)。それで8万円の小遣いまでもらって、ハワイからニューヨーク、シカゴまで行って。初めての海外旅行でした。

    ────今は、そういう計らいをしてくれる上司はなかなかいないですね。

    いませんね。まあ、当時はバブルでしたからね。そこでニューヨークのソーホーを視察したときに、自分の店を出して、自分でデザインした椅子や何かを売っている人がたくさんいましてね。そうやって好きなことをやっている人たちが、次のパワーになっていた。その後ろには、場所を無料で提供する資本家がいるわけです。

    僕はそれがやりたくて、ダイシン百貨店の屋上にカフェをつくって、若いスタッフに勝手にやらせているんです。原点はソーホーなんですよ。うちの会社の中で何かをやりたいというヤツがいたら、金がある限りは「やってみようぜ」と。それが飲食店であろうと、小売業であろうとね。

    ────それが人を育てることにつながりますね。

    育てるというか、僕がそうでしたからね。長崎屋では、その後いろいろあって左遷されてしまったんですが、左遷された先が売り場だったんです。これが一番勉強になりましたね。仕入れして、棚卸して。万引きによる減亡率をどうするかとか。それに利益を乗せていかなきゃいけないとかね。その後、独立してからは、フランチャイズチェーンの立ち上げにいくつか関わって、契約書やマニュアルのつくり方を勉強しましたので、それが今、非常に役に立っていますね。

    百貨店発の『街づくり構想』

    ────ダイシン百貨店は、『住んで良かった街づくり』を目指しておられます。小売業である御社がなぜ『街づくり』なのか、そもそも西山社長にとってビジネスとはどういうものなのでしょうか。

    これまでの僕にとっては、ビジネスは金稼ぎですよ。金にはとにかく苦労してきましたし、金があってはじめて何でもできるわけですから。でもこの年になると少し資金もできて、それもどうかなという感じになってね。僕も建築家の端くれですから、住み良い街をつくってみたいという思いがあるんです。東京のほかの街がどんどんきれいになっているのに、大田区大森はずっと昔のままですからね。

    だから今、隣の土地のマンション建築に僕は正式に反対しているんです(※)。こういう開発を続けてきたことで、日本は成長したけれど、泣いている人がたくさんいるわけです。格差社会、それも収入の格差だけではなく、地域の格差ができてしまった。六本木のミッドタウンと大田区大森と、どれだけ違うんだということです。だからうちは「屋上に小さなミッドタウンをつくろう」といって、和食レストランと川が流れる屋上庭園を設けたんですよ。

    ※ダイシン百貨店が売却した北側隣接地に、24階建ての超高層分譲マンション建設が予定され、建築主と地権者に計画の見直しを求めている。反対姿勢を明確に表明するため、店舗のエントランスに超高層マンションの建築模型を設置(写真左)。模型の上にパネルを掲げ、『住んで良かった街づくり』の構想を地域住民に向けて発信している(写真右)。

    さらに、近隣の空き家が目立つ区域を再開発して大学を誘致し、教育と芸術・文化の拠点をつくって若者を街に呼びこむ。これを『ムーミン村構想』と名づけて運動しているんです。ダイシンで買い物したポイントを使って、地域で医療サービスを受けられるようにするという構想もあります。こういうのを住民の人たちはみんな喜んでくれるんだけど、行政は何もしないんですよね。最初は「いいね」と言うんだけども、突っ込んでいくと「ノー」。ダメなんですね。

    うちが今、走らせているバスだって、「コミュニティバスを出そう」という話が地域で出始めて、15年経っても出ない。「じゃあ、勝手に出しますよ」といってスタートさせたのが、ダイシン送迎バスなんです。

    ────西山社長が言われることは、地域との共生という観点で考えると、これからはとても大事になることだと思いますね。

    でもそれは、大それた考えですよ。街のランドマークになっているダイシン百貨店というポテンシャルがあって、お客さまと一緒にここで63年歩んできたという歴史があるから、こういう生意気なことを言っているんです。

    それに、これまで僕はとにかく人に助けてもらいましたからね。でも、助けてもらおうとは思ってなかったですね。無我夢中でしたから。この年になって思うのは、やはり助けると、助けてくれるんですね。まあ、いちいち「助けるぞ」とか、そんなことは考えないんですけれども。

    ────自分がやったことが返ってくる、やってもらえば返すということなんでしょうね。お客さまとの関係でも同じですよね。こちらがコストをかけて先に何かをすれば、結果的に返ってくるように思います。

    そうですね。つまり、理屈は抜きにして『ファンづくり』なんですよ。よく「ダイシンの極意」と言われるけれども、僕はそんなことは何も言ってないですよ。小売業というのは自分のところで商品をつくっているわけじゃないから、店は違っても品物は同じなんです。

    では何が違うかといえば、お客さまの心をどれだけつかめるかということなんですよ。そのために、うちはイベントも配達も送迎も、すべて社員の手づくり。失敗してもいいから社員がやることで、ごひいきにしてもらおうということが原点にある。それは『システム』じゃないんですよね。そのことをみんな、忘れているんじゃないですか。

    ────後付けの理屈やシステムに頼らない。非常に大切なポイントですね。今日は貴重なお話をありがとうございました。

株式会社ダイシン百貨店
代表取締役社長 西山 敷さん

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    信じるのは、自分のものさし。
    徹底的なリーダーシップで拓いた企業再生の道(前編)

     

    刺身は3切れから販売し、太巻き寿司は1切れずつ小分けにパック──ダイシン百貨店は、住民の高齢化が進む東京都大田区大森の地で、高齢者に優しい店づくりを徹底し、『半径500m圏内のシェア100%』を目指す老舗企業です。年間約400万人が買い物に訪れる同社ですが、今から7年前、2004年に資金繰りの悪化が判明して倒産の危機に直面。経営再建にあたったのが、建築設計事務所から転じた異色の経営者、西山 敷社長です。経営危機をどう乗り越え、売り場に活気を取り戻したのか。企業再生の道のりと西山社長の経営観をうかがいました(聞き手:OBT協会 及川 昭)。

  • [及川昭の視点]

    経営リーダーに必要な直感的能力の重要さ

    直感というと一見ヤマカン的印象があるが、リーダーには、データの分析からでは得られない非論理的なものの積み重ねから生まれる構想力や判断力が非常に重要となる。
    所詮、理詰めやロッジック等で勝てる事業は大したことはない。それだけでは勝てない時が必ず来る。本当の勝負はそのロジックの限界点から始まる。
    数値化された科学的確率といえる分析データは守りには活用出来るものの、そこからの将来は全く生み出せず、未来に向けての構想には全く不向きといえる。
    その場、その瞬間ごとに自分の感覚や判断によって鋭敏に察知していかなければならない。
    それは、様々な修羅場的体験等を通して積み重ねられたものが判断や意思決定の物差しとなっている。
    ダイシン百貨店を再生した西山社長は、まさにこのような経営リーダーとお見受けした。

    聞き手:OBT協会  及川 昭
    企業の持続的な競争力強化に向けて、「人財の革新」と「組織変革」をサポート。現場の社員や次期幹部に対して、自社の現実の課題を題材に議論をコーディネートし、具体的な解決策を導き出すというプロセス(On the Business Training)を展開している。

  • 株式会社ダイシン百貨店 http://www.daishin-jp.com/
    1948年に、創業者の竹内義年氏が長野からリンゴを売りにやってきた大森で株式会社信濃屋を創業。戦後の高度成長の波に乗って事業を拡大し、1964年に株式会社ダイシン百貨店に商号を変更。1992年に竹内義年氏が死去し、後を継いだ長男の竹内洋一氏も2004年に死去。この時点で洋一氏による無理な拡大路線がもたらした財務悪化が発覚し、同社は一転、倒産の危機に直面する。設計事務所の所長としてダイシングループの店舗設計・建設も手がけていた西山 敷氏が役員として経営に参画し、2006年に代表取締役社長に就任。資産を大幅にリストラし、品揃えやサービス、在庫管理などを強化して業績をV字回復させる。現在は営業を継続しながら建て替え工事を実施中。2012年夏にグランドオープンを予定している。
    企業データ/資本金:9690万円(グループ合計)、売上高/60億円(平成22年度実績)、従業員数/社員100名 契約社員50名 パート100名

    HIROSHI NISHIYAMA

    1947年生まれ。大学卒業後、建設会社を経て、大手スーパーチェーンの長崎屋に入社。ショッピングセンターの開発や、フランチャイズチェーンの開発に携わる。1977年に株式会社商業建築計画研究所(現・株式会社商業建築)を設立。数多くの商業施設の建築設計を手がける。2004年に株式会社ダイシン百貨店の取締役に就任。2006年に創業家の株を買い取り、名実ともにトップとして代表取締役社長に就任。著書に「"下町百貨店・ダイシン"はなぜ、不況に強いのか」(講談社)。

  • 再建に必要なのは、徹底したリーダーシップ

     

    ────私どもは、人財や組織の革新を通じて企業の競争力を強化するという仕事柄、さまざまな業界の企業に関わらせていただいていますが、昨今は経済の成長が見込めないことから、多くの企業に閉塞感が漂って非常に元気がないなと感じています。そんな中で、なぜダイシンさんを存じあげていたかと言いますと、たまたま私はこの近くに約30年住んでいまして、家族ともども買い物に来ていたんです。

    ああ、そうですか。ありがとうございます。

    ────昨今のダイシンさんの変貌を目の当たりにしていたものですから、企業を再生する、変えるといったことについてぜひお話をうかがいたいと思い、インタビューをお願いした次第です。

    ダイシンを再生したとか何とか、みなさん素晴らしいことをおっしゃるんですが、ダイシンのどこが変わったかって、店が多少きれいになったのと、社長が私に変わったと。そして、潰れそうだったのが潰れなかったということでね。それが誰かに脚色されると、すごくきれいな言葉になってしまうんですよね。

    ────我々もマスコミも同じだと思いますが、後付けで論理的に整理していきますから、「きれいになる」というのはとてもよくわかります。

    そうなんですよ。僕の場合はたまたま、歴史がある会社に関わったということでね。僕がすべてやったように言われていますが、自分のパワーだけで100%なんてあり得ないじゃないですか。それをみなさんが持ちあげるから、私も自分でやったのかななんて思ってしまいそうでね(笑)。

    ────ダイシンさんを再生されるときに、一番重要なことは何だと西山社長はお考えになったのでしょうか。

    これも結果論ですが、やはりリーダーシップでしょうね。それも徹底的なリーダーシップ。豪腕ですね。でないと、できないですよ。まあ、私自身がそういう性格なんですが(笑)。

    ────豪腕を振るわれた対象はいくつかあったと思いますが、一番は何だったのでしょう。

    第一段階としては、私は社長になるつもりで入ったわけではなかったんです。二代目の社長が突然亡くなられて、資金繰りをされていなかったことが明らかになって。先々代の創業者は、僕はお会いしていませんが、すごい方だったのだろうと思うんですね。けれども、今から19年前に創業者が亡くなられて、それからは無手勝流にやってきたんじゃないですかね。

    私自身は、もとは設計事務所のオヤジで、ダイシン百貨店はお客さまでした。見積もりを出せばノーチェックで契約をくれて、金額でいえば50億円は下らないくらい箱モノ(店舗)に使ったわけです。だから、私が不良債権をつくったともいえるんですよね。でも、当時の私にはダイシンの資金繰りまではわかりませんから、「西山さん、店をつくってください」「わかりました」と、どんどんつくっていったわけです。

    二代目の社長が亡くなられたときにはもう、銀行管理になっていましてね。当時の店長から、「助けてよ」と連絡がきたんです。「銀行に何を話していいかわからない」と。私はこういう外見ですから、睨みが利くと思ったんじゃないですか(笑)。よし、わかったと。その代わり平社員じゃ話にならないから役員就任が条件、報酬もいただきますよと。そういうことで入ったんです。ですから、再建に向けてなんて動いてないですね。銀行対策をして、しめしめ報酬が入るなと。そう思っていたくらいですから(笑)。

    ────そのときに、西山社長のご心中には「これは相当厄介だな」というような思いはなかったのですか。

    いや、全然。だいたい僕は、物事を深く考えないんですね。それで、銀行側のコンサルティング会社が我々の総資産をリストにして出してきて、見たら共同担保が100億円以上入っているわけですよ。スワップも入れるとね。ひどい状態でした。「今なら、会社を潰せばみんなの退職金の一部くらいは払える。がんばるなら、資産リストラを相当しなくてはいけない。どうしますか」と、銀行側とコンサルティング会社から迫られたわけです。

    そのときに一人だけ、僕を呼んでくれた店長が「自力で再建したい」と言いましてね。僕はその人に恩義があるから、勝算も何もなかったけれども「わかった」と。そこから始まったんです。

    ────勝算もなく、ですか。

    僕自身も過去に倒産を経験したことがありますから、銀行対策のやり方はわかっていましたが、再建の方法なんて全然知りませんでしたからね。

    ────何らかのシナリオは描いておられたのですか。

    まったくないです。シナリオは、シンクタンクが描いていましたから。資産リストラと人事リストラをしなさい、工程はこうで最終的にはこの程度になる、とね。自分たちの金の回収ですから真剣ですよ。それに対して、「ではそれは、我々でやりましょう。その代わり、資産をいくらで売却したら、いくら返済するというのを決めてくれなければできない」と。そう言ったら、銀行が怒りましてね。「あなたが口を出すことじゃないだろう。どこの社員だ」、「ダイシン百貨店の役員です」と、相当ドンパチがあって。

    ────言われたことを言われた通りやれ、ということですね。

    そうです。僕が経験した倒産も、銀行の言うままに借り入れて、がんじがらめになった結果でしたので、今回は言いなりにはならないぞと。第一条件として、資産の売却予定額を決めたんです。これには、コンサルティング会社の担当者は相当渋りました。でも、やはり人間なんですね。最初はすごいやり取りがありましたが、そのうちに面白い関係になって、金額を合意して。たまたま半年くらいで、僕が電話一本で売却を全部決めてしまったんですよ。

    経営戦略の成功は「結果論」でしかない

    ────最終的には、本店だけを残してほかの店舗は売却されましたが、それも当初から決めておられたのですか。

    いやいや、シナリオがいくつかあって、銀行のシナリオは一番ポテンシャルのある本店を売って、久が原店(東京都大田区)で営業を続けるというものでした。でも、ダイシンの歴史がどこにあるといえば、ここ(本店/東京都大田区)にあるわけです。無意識にそう思ったんですね。戦略として組んだわけではまったくないです。

    「戦略は結果でつくるものだ」と誰かが言っていましたが、「戦略はストーリーだ」と言いながらも、結果論なんですよ。格好いい言い方をすれば、勘で「ここなら再生できる」と感じたということです。ここには売るポテンシャルがあって、63年もの歴史があるわけですから。

    ────しかし企業再生で圧倒的に多いのは、本拠地を売るパターンですね。

    それはやはり、銀行主導だからですよ。もう一つは、誰がその後の再建をやるのかを考えていないからです。僕も当時は、後のことなんて考えてないですよ。二代目の社長が急逝した後は、遠縁にあたる方が社長になりましたから。でも、私を呼んでくれた人だけが、「西山に任せろ」と。ほかの役員は、ほとんど反対です。僕が役員に入るときも反対でしたが、結局はほかの人では銀行対策ができないから仕方がないという話になって、僕が社長を引き受けたんです。

    ですから、こういうのは『棚ぼた』ではなくて、何て言うんですかね。どうして社長になったのか、いまだにわからないんですよ(笑)。

    ────後付けで整理すると話がきれいになると冒頭に言われたこともそうですが、今のような話を聞くと本当に人間味があって、腹に落ちます。そうして社長になられて、ダイシン百貨店の中をどうご覧になりましたか。

    ここ(本店)は、絶対にポテンシャルがあると思いましたね。

    ──── 一番大きなポテンシャルだと思われたのは、何だったのでしょうか。

    お客さまです。いわゆる『ダイシンファン』の方々です。だって、毎日来てくださるお客さまがいるんですから。マーチャンダイズを提案するといってコンサルテーションの方がいろいろと来られますが、ダイシンは歴史がつくっているんですよ。

    これが儲かったからといって、じゃあ隣町も、住民の所得レベルが高いから店を出したら来ていただけるだろうというようなことでつくった店は、全部浅いんです。金太郎飴でどれも同じ。だから、僕はチェーンストアをやろうとは一切思っていません。この店を守っていけばいいと思っているんです。

    一般的なチェーンストア理論の真逆をいく

    ────それでも規模的な成長といったものは、お考えになられているのですか。

    まったく考えていないですね。ここは年間で100億円売ればいいかなと思っているんです。『売り過ぎ』というのが、僕はあると思うんですよ。売り過ぎると雑になる。人もたくさん抱えることになる。売り上げよりも、やはり『質』ですよね。もう、そういう時代になってきていると思うんですよ。

    ────とてもよくわかります。

    ですからみんなに言っているのは、「俺は商売人じゃないから、モノよりコトを売ろうじゃないか」と。ということで、例えば2008年から夏祭り(※)を始めたんです。実は出店を10円でやりたかったんだけど、うちの連中が大反対なので「じゃあ20円でやろう」と(笑)。

    ※2010年まではダイシン百貨店の駐車場を会場に、2011年は屋上広場を第二会場に加えて規模を拡大し、2日間の日程で開催。フランクフルトやかき氷などを格安で提供し、金魚すくいや射的などのゲーム、プロのミュージシャンによるライブなども企画。イベント業者には外注せず、すべて社員の手づくりで運営している。

    ────倍の金額にして(笑)。

    そう(笑)。それでスタートしたら、買い占めですよ。大人がね。そこで次の年は、大人は100円にして子どもには無料の券を配ってね。だから、子どもたちは私の顔を見たら、何て言うと思います?「しゃちょう、しゃちょう」って。子どもがですよ(笑)。

    ────それは嬉しいですね。

    嬉しいですよね。最後には私もステージで歌わされて、子どもたちが「一緒に歌う」って上ってきて。お客さんは「ダイシン、最高!」なんて言いだしちゃうし(笑)。昨年の来場者は約1万3000人でしたが、今年は初日でその人数に達しましてね。2日間で約2万2000人の方に来ていただいたんですよ。

    だから地域密着というのは、何か特別なことをするというのではなくて、こうしてみんなと遊ぶことだという気がするんです。『コトを売る』ということが、こんなにうまくいくとは思いませんでした。でも、やはりやる方は冷や汗ですよ。この世の中、チラシはバンバン、ディスカウントはバンバン。大手チェーンは売り上げだけを狙って、どんどん安売りでくるでしょ。我々は無茶な安売りはできないから、その辛さはありますよね(※)。

    ※以前は割引セールを多用していたが、経営再建後は価格戦略に頼らない店づくりを追求。売り場には、年に数個しか売れないものも顧客の要望があれば取り揃え、他店を圧倒する品揃えを実現している。写真左は、日本中のほぼすべてのペットフードが手に入るというペットフード売り場。写真右は、オーラル用品売り場に並ぶ、大正14年発売の缶入り歯磨き粉「スモカ歯磨」。昭和の香りを残す、ダイシンにしかない品揃えが、地域の高齢者の心を捉えている。

    ──── 一般的なチェーンストア理論の、真逆を行かれているということかもしれないですね。

    真逆かもしれないですね。だから、ときには欠品などもあるわけです。すると、例えばイトーヨーカドーかこちらかといえば、ヨーカドーに行く方もいらっしゃる。商品が揃っていますからね。それはもう、仕方がないんですよね。そういうジレンマはありますが、何とかギリギリやっているということです。

    ────ただ、『顧客満足』を標榜しない小売業やサービス業はありませんが、ほとんどが自分たちの都合の範囲での『顧客満足』ですからね。

    おっしゃる通りですね。『お客さま満足度』というものも、僕らの価値観を押しつけているんですよ。お客さまが想像することそのものに、密着できていない。お客さまは安く買えればそれでいいかといえば、そうじゃないと思うんですよ。例えば休憩できる椅子が置いてあるとか、屋上に子どもを遊ばせられるプールがあるとかね。『コトとモノ』とをお客さまの側から見たときに、「ああ、いいわ」という価値観を拾っているかということなんです。

    お客さまが自分の母親だったら、どう対応するか

    だから、モニター調査などよりも大事なのは、売り場に僕がいることなんです。お客さまは、僕に直接クレームを言ってこられます。あるいは「○○さんに言ったけど、社長に届いてる?」とかね。そこにヒントがあるんです。

    『しあわせ配達便(※)』もその一つです。はじめは、すべて無料で配達しようと思ったんですが、社員は「できません」と。確かに、お客さま全員に対しては無理なんですね。外注せずに、うちの社員が配達するわけですから。そこで彼らは考えましてね。お年寄りや妊婦さん、体が不自由な方に限定しよう、と。そう対象を絞って、スタートさせたんです。

    ※ダイシン百貨店では『通常配達便』『即日配達便』『しあわせ配達便(要事前登録)』の3タイプの配達便を用意し、店頭で購入した商品を自宅まで届けるサービスを提供している。『通常配達便』『即日配達便』は購入金額の条件があるが、『しあわせ配達便』は70歳以上の高齢者や妊婦、体が不自由な人を対象に、金額制限を設けずに無料で即日配達している。

    既に1000人以上のお客さまが登録されていますが、1000人がいっぺんに来られるわけではありませんから、うちの社員でも対応できるわけです。なおかつ、宣伝効果は抜群です。こういった知恵がよく生まれるようになるんですね。

    ────チラシか何かを見て自宅から注文するよりも、自分で店に来て、自分の目で見て選んだ商品が届く方が、価値がありますね。

    あります。なぜそうしたかというと、私自身が母を三十数年介護してきた経験からなんです。母が快適に過ごせるように、田舎に小さな庭付きの家を買ったものの、結果は違うんですよね。毎年、あちこちに旅行にも連れて行くんですが、そのときの方が元気なんですよ。

    ────外の世界と接することが刺激になるんですね。

    ※ダイシン百貨店ではバスの路線が少ないエリアや坂道が多いエリアを中心に、地域を回る無料の循環バスを毎日運行し、高齢者の外出を促している。

    そうです。そこで、住まいも都心に変えましてね。そうしたら、もっと良くなったんです。ですから店でも、当たり前だと思うことをしているだけでね。家にこもらないで店に来てください、荷物はこちらがお届けしますと。自分で来られない方は、バスでお迎えに行きますよと(※)。だから、うちのみんなにも言うんです。「自分の母親が買い物に来たときに、そういう対応をするか」と。

    ただ、福祉関連のNPO法人の方などから、介護サービスをやらないかといった話もいただきますが、僕は介護をやる気は一切ないんです。だって、できないですよ。何かの催しをするだとか、別の形では提供しますけれどもね。

    ────あくまでも、小売業のフィールドの中で展開するということですか。

    そうです。店に落語家さんを呼んで、老人ホームの方々を招待したりね。今やっている建替工事でも、上棟式にお客さまを招待して餅をまいたんです。そうしたら、おじいちゃん、おばあちゃんたちが、ついていた杖を放り出して取りに来られましたからね(笑)。

    ────力が湧くんですね。

    湧くんですよね。そういう姿を見ると、うちのお袋と同じだなと思いますのでね。もう一つ驚いた話があって、大森から千葉の娘さんのところに引っ越した90歳くらいのおばあちゃんが、久しぶりに店に来られて「社長を出せ」とおっしゃるんです。何かと思ったら、貯金通帳を持ってきて「1600万円あるから、あたしの家をこの辺でつくってくれ」って(笑)。そのおばあちゃんは、僕のことは知らないんですよ。でも、ダイシンの社長ならそれくらいのことをしてくれるだろうと。

    ────ダイシンに行けば何でもあると(笑)。

    そうそう。だから、僕じゃないんです。ダイシンありきなんですよ。今回の建替工事でも、借り入れでいろいろな金融機関の方にお会いしましたが、「子どものころからダイシンによく行って、ダイシンで育ったんですよ」という方が何人かいましたからね。

    そこで思うのは、僕らは戦後、学校教育も受けたけれど、駄菓子屋教育もあったじゃないですか。子ども同士がケンカしたりケガしたり、店のおばあちゃんに「こらっ」と怒られたりね。そういったコミュニケーションや優しさがあったけれど、今はそれがなくなってしまったでしょう。そんな商店というかね、原点がつくれないかなという思いも、僕の思想の一つなんです。

    イトーヨーカドーや西友、東急ストアといった競合店が周囲にひしめく激戦区・大森で、経営再建を担ってきた西山社長。その語り口には気負いがなく、店づくりを心から楽しんでおられることが伝わってきます。西山社長の経営観とは。西山社長が描く、ダイシンの未来とは。後編でもじっくりとうかがいました。

*続きは後編でどうぞ。
  信じるのは、自分のものさし。 徹底的なリーダーシップで拓いた企業再生の道(後編)

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