2010年9月アーカイブ ..

株式会社金剛組
代表取締役社長 小川完二さん

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    【長寿企業研究】創業1400年。
    世界最古の老舗企業に聞く"伝統と革新"(後編)

     

    シリーズ「長寿企業特集」は、今回で最終回となります。最後にお話を伺ったのは、飛鳥時代の578年に創業した金剛組。現存する世界最古の企業といわれ、1400年を超える社歴を有する老舗中の老舗企業です。聖徳太子の命によって、大阪の四天王寺創建を担って以来、社寺建築を手がける宮大工として古来の技術を今に伝えてきました。2005年には、バブル期の事業多角化の影響で経営難に陥るものの、地元大阪の中堅ゼネコン、髙松建設の支援を受けて"新生・金剛組"として再建。1400年の伝統を守りながらも、時代の先端をいく技術を取り入れ、社寺建築の新時代を築いておられます。金剛組の長寿を支える、伝統と革新とは。代表取締役社長、小川完二さんに伺いました。

  • 株式会社金剛組 http://www.kongogumi.co.jp/)飛鳥時代の578年に、聖徳太子が百済から招いた三人の工匠の一人、金剛重光により創業。593年に四天王寺の建立を命じられる。以来、四天王寺のお抱え宮大工として、日本建築を代表する歴史遺産を守り続けるが、明治元年に出された神仏分離令により四天王寺は寺領を失い、金剛組も苦難の時代を迎える。昭和30年には株式会社化し、鉄筋コンクリート工法による社寺建築にもいち早く取り組むなど、経営と技術の近代化を図るものの、バブル期の事業多角化により多額の借入金を抱え、2005年に髙松建設から出資を受ける。2008年、親会社の持株会社化に伴い、株式会社髙松コンストラクショングループの一員となる。
    企業データ/資本金:3億円、従業員数/130名、売上高/50億円(2010年3月期決算)

    KANJI OGAWA

    1949年生まれ。1972年に富士銀行(現みずほ銀行)に入行。審査部長、常務執行役員などを歴任した後、2003年に髙松建設代表取締役副社長に就任。2006年1月に金剛組代表取締役社長に就任、現在に至る。髙松コンストラクショングループ代表取締役副社長を兼務。

  • バブル崩壊後、経営不振に。1400年の歴史が途絶える危機を迎える

    ────金剛組は、2005年に経営危機に陥られました。厳しい状態に追い込まれた原因は何だったのでしょうか。

    家訓(前編参照)にもあった「儲けすぎるな」という事業の基本に外れることをしてしまったということです。原因はバブル時代にあります。当時は、高いものから売れた時代です。お寺の本堂なども高級志向となり、材質やデザインのグレードも高くなっていた上に、特命受注が多かったため、利益もかなり出たと思います。

    そうした環境の中で、高コスト体質になってしまったんですね。コストは下方硬直性が高いですから、元に戻すことはなかなか難しい。そうこうするうちにバブルが崩れて厳しい生存競争が始まりました。何とか売り上げを維持したいと思ったときに即効性があるのは、鉄筋コンクリートの箱モノなんです。お寺の本堂が1つ8000万円として、ホテルやマンションなら一棟で5億円。魅力的ですよね。とはいえ、一般建築を専門とする建設会社とはコスト体質が違いますから、普通に考えれば勝ち目がありません。それを無理して受注し、5億円で請け負ってコストは6億円かかるといったこともありました。

    それでもなぜ一般建築に事業を広げたかといえば、最初に手付金として3分の1が入金されるんです。それが魅力で受注するものの、終わるともっと資金繰りが苦しくなっている。そんな状況が続いて、最終的には売上高は年間130億円の規模になっていましたが、赤字も大きく膨らんでしまったんです。

    ────なぜ、窮地に陥る前に手を打つことができなかったのでしょうか。

    金剛組は創業家による経営が続いていましたが、オーナー企業でのオーナーは絶対的な存在。経営を間違えてしまったときも絶対なんですね。金剛組は1955年に株式会社化されていましたが、取締役会は一度も開かれていなかった。実態は、誰も知らなかったんです。銀行からの借り入れがだんだん増えて、おかしいなという認識はあったかもしれません。しかし、恐らくオーナーも正確には財務状況を把握していなかったのではないでしょうか。最終的に手形の決済資金が不足し、このままでは不渡りが出るという事態になって、銀行を通じて髙松建設にご相談をいただいたのです。

    ────髙松建設は、それまで金剛組とはご関係がなかったと伺っています。なぜ救済をご決心されたのでしょうか。

    髙松会長(現(株)髙松コンストラクショングループ 代表取締役会長 髙松孝育氏)の言葉をそのまま言えば、「伝統あるものは一度壊したら、二度と戻すことはできない。大阪の宝である金剛組をみすみす潰すのは、大阪の建設業者の恥だ」ということです。といいましても、髙松建設は上場会社ですから、株主に金剛組再建の意義をきちんと説明したうえで支援しなくてはいけません。そこで、まずは私が金剛組に入ってデューデリジェンス(資産の調査活動)を行ったのですが、「金剛組を何としても守りたい」と髙松会長の意思は決まっていた。支援しないという選択肢はない、難しい役割を担ったんです(笑)。

    再建の過程では、銀行を始めとする債権者の方々に多大なご協力をいただきました。手形でお支払いしていた債権者の方には、任意で3割カットをお願いしたところ、99%の方が応じてくださった。みなさん、金剛組を応援したいと言ってくださるんですね。過去にずいぶんお世話になった、と。この業界の最大手に近い企業ですから、みなさんにとっても死活問題だということもあったでしょう。金剛組が今まで、一切の不義理をせずにきたことも大きかったと思います。債権者集会といえば怒号が飛び交うものですが、非常に紳士的に進んだと聞いています。これは大変なことで、心底ありがたかったですね。

    ガラス張りの経営で、社員の当事者意識を高める

    ────そして2006年1月に、代表取締役社長に就任されました。ご就任当初、金剛組という会社をどのようにご覧になられましたか。

    すごい会社に来たと思いましたよ。何しろ日本最古の会社ですし、社員はみな社寺建築のプロばかり。こちらは、社寺に関しては素人でしょう。「伝統を壊したら許さないぞ」という目で睨まれて、怖かったですね(笑)。

    ただ、みんな本当にいい顔をされていたんです。当時は毎年給与が下がり、ボーナスも何年も出ていなかった。苦しい状態が続いていましたが、社員は辞めずに残ってくれていました。宮大工さんも、金剛組の専属でいてくださっていた。頑張って金剛組を存続させたいという思いが、みなさんの中にあったんです。何としてもこの人たちと力を合わせて再建をしたいと、強く思いましたね。

    また、当時も応援してくださるお客さまがたくさんいらっしゃいましたし、社員も一生懸命やっている。ですから、必ず再建できるという確信はありました。業績不振の原因は経営手法にあったわけで、経営さえ変えれば会社は必ず良くなる。そう確信して、経営のやり方を全面的に改革していきました。

    ────どのようなことを変えていかれたのですか。

    ひと言でいえば"普通の会社"にしたということです。それまでは、取締役会もなければ情報開示も一切ありませんでした。常務すら財務内容を知らず、すべてがベールにつつまれていたんです。全社員にアンケートを取って、新しい経営陣への要望を聞いたところ、「会社をガラス張りにして欲しい」という声が多くあがりました。「自分たちは一生懸命働いてきたのに、なぜこんな事態になったのか。こうなるとわかっていれば、何かやりようもあったかもしれない。だから、ぜひ経営をオープンにしてもらいたい」、と。おっしゃる通りです。

    ですから、今は毎月、工事本部や設計本部、営業本部といった部門の長が集まる会議で、会社の業績や受注状況をすべてオープンにしています。また、年度初めの4月には全社員に集まってもらって年度の方針と計画を発表し、全員で情報を共有しています。

    ────情報をオープンにしたことで、社員の方々の意識に何か変化はありましたか。

    実態が把握できたことで、安心はしているのではないでしょうか。危機感も持てるでしょうし。以前の状況はわかりませんが、今はいたって健全な反応です。会議では意見も出ますし、年度初めの方針発表のときなどは結構厳しい質問も受けます。非常にいいことだと思いますよ。納得しないまま、決まったことをやらされるのは辛いですからね。

    やはり、当事者意識というのは、情報がなければ持つことはできません。金剛組の再建は自分がやらなくてはいけない、自分自身も金剛組を再建する一人なのだという自覚は、情報があって初めて持てるものなんです。

    ────改革で一番苦労されたのは、どのようなことですか。

    これは、どの会社でもいえることかと思いますが、改革に一番抵抗するのは中間管理職なんですね。若い人は、働きやすくなると納得すれば、変化に抵抗しません。判断が非常に合理的です。経営陣は経営に責任がありますから、動かざるを得ない。部長や部門長も、役員に近い判断をします。その中で、中間管理職はいつも板挟みできていますから、「また変わるのか」と。実務を担う立場として「できれば変えてほしくない」という意識があるんですね。

    そうした意識も、"利益実感"があると変わります。改革したら仕事が進めやすくなった、成果があがるようになったといった効果が肌身でわかると、変化を受け入れやすくなる。しかし、これは"鶏と卵"で、中間管理職が本気にならないと会社は変わりませんし、会社が変わらないと中間管理職が本気にならない。そこが難しいところで、どこかで「よいしょ」と、力仕事で変えていく部分も必要です。けれども今は、それもずいぶん変わってきたと感じています。ですから、中間管理職の人たちに、本気で会社を変えなくてはいけないと思ってもらえるかどうかが、変革のポイントになるのだろうと思いますね。

    本業回帰を掲げ、全国的な新規営業を展開

    ────改革の中では、ご事業の"本業回帰"も掲げておられます。

    1棟で5億円や10億円になるような大型の一般建築も受注できれば、売上高をすぐに伸ばすことができますが、社寺建築以外の受注は禁止しています。それしかないとなると、必死になりますからね。人間は追い込まれないと、知恵も力も出ないんですよ。ただし、下手に追い込むとプレッシャーがマイナスに働きますから、明るく追い込むことが大切(笑)。ずいぶん働かされたけれども、苦痛じゃなかったな、と。そういうのが一番いい働き方です。難しいですが、そのように明るく仕事をしていきたいと思いますね。

    ────ご本業をどのようにテコ入れされているのでしょうか。

    これまでは馴染みのお客さまと、その伝手による仕事が中心で、それで事業が成り立っていましたが、今は積極的に新規開拓を進めています。大阪にいますと京都は敷居が高いものですから、京都に沢山ある本山にもあまり伺えていませんでした。しかしこれから積極的に行こうと、本山営業にも力を入れています。

    営業プロセスには、目標管理を導入しました。営業職はホワイトカラーですから、生産性を向上させることが難しいんですね。そこをどうするかといえば、やはりレビューすることなんです。どこを訪問して、どうだったかということを上司に報告する。そして、商談の段階別にA、B、C、D...と訪問先を分けて、何がネックになっているのか、そのネックを取り除くにはどうすればいいのかといったことを、月に一度、グループ長と営業本部長と常務も同席して、レビューしながら知恵を出し合うんです。

    それでも当初は、なかなか新規の訪問が進みませんでしたが、今では毎月一人平均100件訪問しています。全社では営業が25人いますから、全体では月に2500件、一年間では約3万件訪問している計算になります。全国には寺院が約7万寺、神社は約8万社あり、かなり訪問しましたので純粋な新規は減ってきていますが、それでもまだお伺いできていない地域があります。今、重点的に開拓しているのは、中国地方と九州、四国、北関東。京都と名古屋、九州には支店を置き、北海道は電話窓口を開設しています。髙松コンストラクショングループ関連会社の支店が全国にありますから、そこに金剛組の支店を置かせていただいているんです。そういったグループのリソースが活用できるのはありがたいですね。

    社寺建築に最新技術を取り入れ、他社との差別化を図る

    全国の寺院7万寺、神社8万社のマーケットは、金剛組にとっては無限の市場ともいえますが、価格競争が厳しくなっていることも事実です。これは、入札制度の弊害が大きいですね。入札が機能するのは、誰がやっても同じ建物ができることが前提ですが、社寺建築は材料の木材一つとっても、同じものはありません。同じ木を使っても、木組みは宮大工によって違います。でも、設計図にはそんなことまでは書かれていませんから、設計図だけで価格勝負となると、"安かろう、悪かろう"が歓迎されるような風潮にもなりかねない。ですから、われわれ金剛組としては、応札する案件を絞り込んで、品質をきちっと見ていただけるところで勝負していきたいと考えています。

    また、大規模な工事になると、大手建設会社が元請けになり、金剛組が下請けとして入るケースもあります。これは髙松建設の髙松会長の言葉ですが、こういった案件についても「プライドを持とう」と。具体的には、建設現場の看板に、元請け会社と並んで「木工事担当:金剛組」と当社の社名と、担当する棟梁の名前を明記していただいているんです。

    ────それは、通常はされないことなのですか。

    ないですね。業界では異例のことです。ですから、最初に大手建設会社にご相談したときは、すぐには了承いただけませんでしたが、名前が入らないならこの案件はお請けできません、と。以降の案件も、看板に金剛組と棟梁の名前を入れていただくことを、条件にしています。看板に棟梁の名前が入れば、棟梁も命がけでやりますからね。

    ────再建に着手して5年が経ちました。今後のテーマとしてお考えのことをお聞かせください。

    一番のテーマは、他社とどう差別化するかということです。そのために今、力を入れているのは、地震対策です。本堂の中には立派な仏具がたくさんありますから、建物が持ちこたえても仏具が倒れたら大変なことになる。その対策として金剛組では、「エアー断震システム」という断震技術を導入しています。

    これは、空気圧で建物全体を浮かせることで、振動を「断つ」技術です。地震を感知した段階で、タンクに貯めておいた圧縮空気を人工地盤と基礎の間に送り込む。すると、お堂全体が数センチほど浮くんです。浮いてしまえば揺れの影響はほとんど受けません。ただしそのままでは、揺れが終わってお堂を戻すときに、元の位置とずれる恐れがありますが、そのずれを調整する装置もついています。日本全国の社寺や古建築、文化財にこの技術を使えるのは金剛組だけ。金剛組はこの技術の特許を持つ、茨城県土浦市のツーバイ免震住宅株式会社と、社寺や古建築における独占契約を結んでいるんです。

    ────古来の技術を伝承するというイメージの強い宮大工の世界で、こういった最新技術も取り入れておられるというのは、意外な印象です。

    金剛組が永きに亘って続いてきた理由も、そこにあるのではないでしょうか。伝統技術はしっかりと受け継ぎながら、その時々のいいものを取り込んでいく。それを両立させてきたのです。今後も金剛組は、社寺建築については最も先進的でなければならないと思っています。一番古いけれども、一番新しい。それが金剛組なんです。

    例えば、鉄筋コンクリート工法による社寺建築も、当社は業界に先駆けて手がけています。今は、建築基準法で防火地域に指定される地域では、木造では建築許可が下りませんから、街中のお寺は鉄筋か鉄骨のものも多いんです。

    ────現代の法規制に対応することも求められるのですね。

    そうです。また、平成21年に竣工した、京都・西本願寺の参拝施設「龍虎殿」は、高さが約20mあり横幅もかなり大きなお堂ですが、この規模を支えることのできる木が今はもうなかなか手に入りません。かといって鉄筋だと重くなりますので鉄骨を木で巻き、構造の強度と木の風合いを両立した建築に仕上げています。

    浄土真宗本願寺派 本願寺(西本願寺) 龍虎殿 平成21年竣工(画像提供/金剛組)

    構造計算にしても、偽装問題があってから基準が厳しくなりましたが、金剛組は、社寺建築で初めて、限界耐力計算を使って構造計算の適合判定を受け、建築確認を取りました。これもすんなりとは確認をいただけなかったのですが、金剛組の技術者が京都大学の専門の先生のもとで一から構造計算を学び、諮問委員会にもかけていただいたうえで確認を得ることができました。事業を続けていくうえでは、こうした法規制やお役所との戦いもあります。

    しかし、何事も前例がないことから始まるものです。伝統的なものは受け継ぎながら、その時々のいいものを取り込んでいく。それによって他社との差別化ができ、金剛組を次代に引き継ぐことができると考えています。

    ────ありがとうございました。

株式会社金剛組
代表取締役社長 小川完二さん

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    【長寿企業研究】創業1400年。
    世界最古の老舗企業に聞く"伝統と革新"(前編)

     

    シリーズ「長寿企業特集」は、今回で最終回となります。最後にお話を伺ったのは、飛鳥時代の578年に創業した金剛組。現存する世界最古の企業といわれ、1400年を超える社歴を有する老舗中の老舗企業です。聖徳太子の命によって、大阪の四天王寺創建を担って以来、社寺建築を手がける宮大工として古来の技術を今に伝えてきました。2005年には、バブル期の事業多角化の影響で経営難に陥るものの、地元大阪の中堅ゼネコン、髙松建設の支援を受けて"新生・金剛組"として再建。1400年の伝統を守りながらも、時代の先端をいく技術を取り入れ、社寺建築の新時代を築いておられます。金剛組の長寿を支える、伝統と革新とは。代表取締役社長、小川完二さんに伺いました。

  • 株式会社金剛組 http://www.kongogumi.co.jp/)飛鳥時代の578年に、聖徳太子が百済から招いた三人の工匠の一人、金剛重光により創業。593年に四天王寺の建立を命じられる。以来、四天王寺のお抱え宮大工として、日本建築を代表する歴史遺産を守り続けるが、明治元年に出された神仏分離令により四天王寺は寺領を失い、金剛組も苦難の時代を迎える。昭和30年には株式会社化し、鉄筋コンクリート工法による社寺建築にもいち早く取り組むなど、経営と技術の近代化を図るものの、バブル期の事業多角化により多額の借入金を抱え、2005年に髙松建設から出資を受ける。2008年、親会社の持株会社化に伴い、株式会社髙松コンストラクショングループの一員となる。
    企業データ/資本金:3億円、従業員数/130名、売上高/50億円(2010年3月期決算)

    KANJI OGAWA

    1949年生まれ。1972年に富士銀行(現みずほ銀行)に入行。審査部長、常務執行役員などを歴任した後、2003年に髙松建設代表取締役副社長に就任。2006年1月に金剛組代表取締役社長に就任、現在に至る。髙松コンストラクショングループ代表取締役副社長を兼務。

  • 金剛家の家訓に残る「儲けすぎない」という教え

    ────今日は、世界最古の企業でいらっしゃる金剛組の長寿の秘けつを伺えればと思っておりますが、そもそも社寺建築のご業界は、どういった構造になっておられるのでしょうか。

    この業界の最大手は、おそらく松井建設さんだと思います。社歴400年以上の、日本の上場企業では一番古い会社です(注:松井建設の創業は1586年)。北陸の発祥で金沢城の復元などを手がけられ、東京では築地本願寺を建設されました。2番手が金剛組で、当社の売上高は年間約50億円。10億円前後が次の大手になり、以降は数億円規模でなさっておられる企業が中心になります。個人経営の大工さんも多く、いわゆるピラミッド構造になっていないことがこの業界の特徴です。

    その中で、金剛組が永きに亘って続いた背景には、いろいろな要素があると思いますが、一ついえるのは、日本では歴史上の大きな紛争がなかったということです。社歴が千年を超える会社はほかにもありますが、どれも日本の会社。海外では、600年の会社が一番古いといわれていますし、中国などは「四千年の歴史」といわれる国ですが、200年の会社もないはず。歴史を見ると、他国では支配者が変わると民族も変わるんですね。その度に、前支配者の一族は根絶やしにされる。仕えていた商人も一蓮托生なんです。

    日本だけは、天皇家が続いていますでしょう。戦国時代も、戦うのは武士だけ。そういった、本当の意味での政変がない穏やかな国で、残るべくして残ったのだろうと思います。ただ、数百年続いている会社でも、同じ事業を続けている会社は少ないですね。たいていは、事業や製品が変わっています。その中で、金剛組は何も変わっていないんです。日本には、社寺仏閣を美しいものとして崇め、貧しくても浄財を納めてお堂をつくろうという文化があります。そういった民度の高さといいますか、宗教心があって、社寺が残ってきたから、われわれの仕事が続いたのです。

    ────しかし、宮大工と呼ばれる方々は、今では数少なくなられたと伺っています。その中で、金剛組が永く続いておられるのはなぜなのでしょうか。

    一つは、金剛家の家訓(※)にも残されていることですが、儲け過ぎなかったことがよかったのだろうと思います。儲け過ぎてしまうと、本業が馬鹿らしくなるんですね。そしてほかの事業に手を出して、本業を真面目にやるということが難しくなってしまう。もちろん、赤字になっても本業は続きませんから、儲けなくていいということではありませんが、ほどほどの利益を生んできたことが、一つのポイントなのだろうと思います。

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    ※江戸中期に金剛組を率いた32代・金剛喜定が、遺言書に「職家心得之事」として以下の家訓を記した。その中で、「入札は廉価で正直な見積書を提出せよ」と、暴利を得ることを厳しく禁じている。-
    -
    一.儒仏神三教の考えをよく考えよ-
    一.主人の好みに従え
    一.修行に励め
    一.出すぎたことをするな
    一.大酒は慎め
    一.身分に過ぎたことはするな
    一.人を敬い、言葉に気をつけよ
    一.憐れみの心をかけろ
    一.争ってはならない
    一.人を軽んじて威張ってはならない
    一.誰にでも丁寧に接しなさい
    一.身分の差別をせず丁寧に対応せよ
    一.私心なく正直に対応せよ
    一.入札は廉価で正直な見積書を提出せよ
    一.家名を大切に相続し、仏神に祈る信心を持て
    一.先祖の命日は怠るな
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    また金剛組のトップは、職人を率いるだけの技術や統率力が必要ですから、後継者は実力主義で選んできました。長男がだめなら廃嫡して、次男に継がせる。それもだめなら代を飛ばして、孫に継がせる。息子がいるのに、優秀な宮大工を養子に迎えたこともあったと聞いています。ある意味で冷徹に、長男にこだわらずにトップにふさわしい者を選んできたことが、金剛組が永く続いたもう一つの理由だと思いますね。

    専属の宮大工と築く"信頼関係"と"緊張関係"

    またこの業界では、宮大工はどの建築会社にも属さないのが普通ですが、金剛組は唯一、8組、約120人の宮大工を専属で抱えています。専属契約を交わしているわけではないけれども、お互いの信頼関係の中で、代々、専属関係が続いているんです。通常はその都度、工事を請け負った建設会社が宮大工を集めて、仕事が終わったら解散。従って工事の都度、宮大工の顔ぶれは変わりますが、金剛組では専属の宮大工が担当する。お客さまに安心して任せていただける体制が整っているんです。

    ただし、専属関係になると甘えや癒着が生まれて、高コストになりがちです。そういったリスクがありながらも、金剛組が長年、この関係をうまく続けることができたのは、宮大工との間にいい緊張関係と信頼関係があったからだろうと思います。

    緊張関係というのは、月に一度、「名儀人会議」という会議を開いているんです。名儀人とは、「金剛組」の名儀を使うことが許されている、金剛組を代表する職人のこと。鳶土工1組、棟梁が8組と左官工が2組の、計11組の名儀人がいます。その方たちに集まってもらって、今の受注状況や各組の仕事の状況、価格やコスト削減について、お互いに厳しくやり合うんです。「この価格では落札できない。品質を保ちながらも、コストダウンできないか」「わかりました、何とかしましょう」といったように。すると、そこに工夫が生まれるんですね。この緊張感がなくなってもたれ合うと、競争力がなくなってしまうわけです。

    ────そういった議論を個別にではなく、皆さんが集まる場でされる目的は何ですか。

    名儀人会議で話し合えば、状況を全員で共有できます。また、例えば、人手が足りないある組にほかの組から大工が応援に行くといった人員の話になることもありますが、それも各自で融通するのではなく、金剛組が取り仕切る。すべて、金剛組の指揮命令系統のもとに動いてもらうという目的もあります。

    ただ、いい仕事をするには、こうした管理体制を整えるだけでなく、互いの信頼関係も必要です。「何かあったら面倒は見る。だから、何かあったら頼むぞ」と。そういう信頼関係があるから、高い技術が維持できるのだろうと思います。

    ────各組への仕事の割り振りは、どのようにして決定されるのですか。

    一つの現場は、一つの組にすべて任せます。「この五重塔をつくったのはこの組」と、責任体制がハッキリしているんです。各組への振り分けは、当社の常務が一手に取り仕切ります。常務は、18歳でこの世界に入って50年のベテランで、各組の得意分野やこれまでの依頼状況などを加味しながら不公平がないように、バランスを非常に細かく考えて、割り振っていきます。これも大変な仕事で、こういったノウハウもまさに金剛組の財産だと思いますね。

    "任せて見守る"ことで、若い世代に技術を伝承する

    また、仕事の割り振りでいえば、金剛組の工事担当者を誰にするかも大切な問題です。棟梁との相性もありますし、どこかのタイミングで新しい仕事を任せないと、本人の能力も伸びません。経験のない現場も、「よし、彼にやらせてみよう」と。その挑戦を乗り越えることで、一皮剥ける。人というのは、こういった一皮剥けるタイミングが成長のときなんです。棟梁も同じことを言いますね。若い宮大工に下働きばかりさせていたのでは力がつきませんから、あるタイミングで1本100万円くらいする木を任せるんです。失敗すれば親方の持ち出しですから、100万円を捨てる覚悟で任せる。こうした経験を通して身に付けたことは、一生覚えているものです。

    そのときに、親方は任せっぱなしにするのではなく、ちゃんとウォッチしてあげるんですね。自分がやったほうがよほど仕事が速いけれども、そこは我慢して、本人にやらせて見守る。ですから実際のところは、何百万円もする木をムダにするケースは、ほとんどありません。そして本人には、「自分がやった」という達成感が残る。これがいいんです。この達成感が、何にもまして力になります。

    ────仕事を任せなければ、部下は育たない。それがわかっていても、一般の企業では、失敗を恐れて若手に任せることができない管理職が増えています。

    確かに、自分は仕事を任せてもらって育ったのに、年を取ると若手に任せない人が最近は多いですね。任せる時期がどんどん遅れて、しかも年寄りが元気で引退しないから(笑)、世の中全体に非常に閉塞感がある。そういう意味では、この業界は若手を育てるシステムが非常に優れていると思います。

    金剛組としても、そうした技術の切磋琢磨の場として、加工センターを宮大工8組に無償で使ってもらっています。昔は、組ごとに加工場を用意していたのですが、効率化を考えて8年前に大阪・堺市の材木団地内にのべ床約2300坪の加工センターを構えて統合しました。そこで各組が、親方を中心に技術を競い合うんですね。宮大工の世界は親方が一番ですから、技術的な指導を受けるのは親方か兄弟子。でも加工センターでは、ほかの組の仕事も目に入ります。これが、互いにいい刺激になるんです。

    ただ、宮大工の仕事では、こうして磨いた技術の評価が定まるのは早くても50年後になります。というのは、文化財や国宝というのは、どんなに素晴らしいものでも建築後50年以上経過しないと、認定を受ける資格がないんです。しかし、手がけた棟梁の名前は棟札(※)に入りますから、何十年、何百年経っても、誰の作品かはわかる。みんな、その数十年後、数百年後の評価を得たくて、頑張っているんです。

    ※棟札:建物の棟木に貼りつける札。建主や施工主の名前や上棟式の日付などが記される。

    こうして飛鳥時代から平成まで続いた金剛組は、2005年に倒産の危機を迎えます。その事態を救ったのが、地元大阪の中堅ゼネコン・髙松建設。髙松建設から派遣された小川社長はさまざまな改革に着手し、1年で最終損益を黒字に転換させました。小川社長は、どのような課題にどんな手を打たれたのか。後編では、金剛組再建の道のりを伺います。

*続きは後編でどうぞ。
  長寿企業研究 ──創業1400年。世界最古の老舗企業に聞く"伝統と革新"(後編)

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