2010年6月アーカイブ ..

株式会社永楽屋
代表取締役社長 細辻 伊兵衛さん

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    【長寿企業研究】
    起点は「自社事業の検証」。
    倒産危機から経営を立て直し、創業約400年の事業を存続(後編)

     

    「老舗企業の歴史は変革の歴史」と言われるが、京都の老舗織物商、永楽屋もその一社だ。代々、太物商(綿・麻の織物商)を営んできた家業を戦後にタオル卸に転換。しかし、海外のライセンスブランドに太刀打ちできずに倒産の危機を迎え、1999年に事業の大改革に踏み切る。再建を目指していた細辻社長は昔、自社で作っていた「手拭い」に事業立て直しの糸口を見出す。「現代のどんなに素晴らしいアーティストとは一味違った」魅力を感じたという。周囲からの反対を押しのけ、従前の様に汎用品/仕入品ではなく"自社発"老舗ブランドを立ち上げ、復活を遂げた。時代の流れとともに市場、競合、顧客が変わり、企業が提供できる付加価値も変わる。経営リーダーに求められることは環境変化に照らして自社事業を検証できる客観的な視点である。
    『長寿企業特集』第三回目は、永楽屋十四代当主・細辻伊兵衛さんにお話を伺います。

  • 永楽屋本店(画像提供:永楽屋)

    株式会社永楽屋 http://www.eirakuya.jp/)1615年創業。創業家の先祖が、戦国時代に永楽通寳の紋を使用していたことから、屋号を『永楽屋』とする。代々、"太物"と呼ばれる木綿・麻の織物を扱い、第二次世界大戦後にタオル卸業に業態転換。全国有名百貨店との取引を広げるが、ライセンスブランドを持たなかったことから業績が悪化。1999年には債務超過に陥り、倒産の危機を迎える。同年に十三代当主が引責辞任し、十四代細辻伊兵衛氏が代表取締役に就任。明治から昭和初期にかけて同社が扱っていた手拭いを復刻し、2000年に『京三条町家手拭「永楽屋 細辻伊兵衛商店」』を再開。自社ブランドを立ち上げたことで経営の再建を果たす。2004年からは多ブランド化に乗り出し、新感覚の手拭いブランド「RAAK(ラーク)」、帆布鞄専門店の「伊兵衛 Ihee」、風呂敷専門店の「伊兵衛 ENVERAAK」ほかを展開。
    企業データ/資本金:2600万円、従業員数/100名、店舗数/22店(2010年5月末現在)

    IHEE HOSOTSUJI

    1964年生まれ。高校卒業後、卓球の実業団選手として大手自動車メーカーのグループ企業に入社。1985年にアパレル業界に転身し、海外系ブランドの店長として高い業績をあげる。1991年に永楽屋十二代当主の長女と結婚して永楽屋に入社、翌年に十二代当主が急逝。叔父が十三代目を務めた後、1999年に十四代細辻伊兵衛を襲名し、代表取締役に就任。

  • 目指すのは"オンリーワン&ナンバーワン"

    ────"限定したものづくり"(前編参照)とは、こだわったものをつくるということでしょうか。

    こだわっていても、限定してなければダメですね。つまり、"オンリーワン"でなければならないということです。例えば大手の流通チェーンなどは、京都でも大阪でも東京でも、店で売っているものは同じことが多いでしょう。それを、すべて変えるくらいの発想で考えないと。実際には、今の流通システムではそこまではできませんが、やはり"オンリーワン"でないと魅力がないじゃないですか。

    ────"2009年限定"や"東京限定"といった限定版の手拭いを出されていますが、これも"オンリーワン"の発想からなのですね。

    そうです。年や店によって品ぞろえを変えているんです。今はものが売れない時代だと言われていますが、それは買いたいと思うものがないだけなんですよ。デフレが加速して、アパレルでも低価格をウリにしたブランドが売れていますが、低価格商法は大企業だからできること。中小企業が同じことをしようとしても無理です。ではどうすればいいのかというのが、"オンリーワン"なんです。どこにでも売っているようなものを、わざわざ買おうとは思いませんが、「ここでしか手に入らない」といわれれば、「ほんなら買うていこうか」という気になる。限定したものづくり、限定した店づくり。これしかないと思います。

    ────タオルは卸売業でしたが、手拭いは自社で小売までされています。これも当初から決めておられたのですか。

    問屋では社名が知られることはありませんので、小売までやろうということは考えていました。また、繊維業界というのは特殊な業界で、メーカーの名前が知られることも少ないんです。例えば電化製品なら、パナソニックや任天堂など、メーカーの名前が有名になるじゃないですか。けれども繊維業界は、仮にライセンスブランドを獲得したとしても、そのブランドの名前で認知されるだけなんです。ですからいわゆる"SPA"、製造小売り業を実現しようと考えたのです。しかし、最初は売れませんでした。

    ────販売が苦戦する期間は、どのくらい続かれたのですか。

    2年くらいは続きましたね。当初は本店(本社ビルの1階店舗)で販売していまして、平成12年に復刻版の手拭いを発売してから平成15年までは売上が伸びませんでした。その間、平成14年に四条店をオープンしたところ、ある程度は売れたんですね。これで手拭いが事業になるかもしれないという手応えをつかんだので、同じ平成14年に京都で有名な街・祇園に店を出したんです。

    ────そこからは順調に業績を伸ばしておられますが、苦戦された2年の間、手拭い事業からの撤退を考えたことはありませんでしたか。

    思いました。何度も思いましたが、永楽屋の手拭いは、生地も染めも、日本でこれ以上のものはできないといえる品質のものです。しかも、絵柄は京の老舗の復刻版。ブランドになるにふさわしい条件がそろっているんです。ですから、安売りもしたくありませんでしたし、いつかは認めてもらえると思ってやっていました。

    ────その間、どのような試行錯誤をされたのですか。

    ものづくりに力を入れました。当初は手拭いだけでしたが、手拭いを使った小物や鞄をつくったり。手拭いに馴染みがない人でも、鞄やったら馴染みがありますよね。商品の幅を広げていったということです。

    ただ、良い品物をつくっても、まずは存在を知っていただかなければ、買っていただくこともできませんので、有名になるのも非常に大事なことです。有名になることを私は"ナンバーワンになる"と言っていますが、中小企業は"オンリーワン"に加えて"ナンバーワン"になる努力も必要なんです。

    しかし、中小企業には広告費の負担は重い。なけなしのお金を使って広告も出しましたが、有名になるにはメディアさんに取り上げていただくのが一番です。ですから、当社はどんな取材も断ったことはありません。商品の幅を広げて変わったものをつくっていると、テレビや雑誌、新聞から取材にきていただけるんです。それでも、"知っていただく"というのは難しいですね。ほんまに、難しいです。

    手拭いの柄をモチーフにした鞄。このほかに、カードケースや小銭入れ、姉妹ブランドで展開する帽子など商品展開は年々広がっている。(写真左・フラットバック、写真右・タックバック、絵柄はいずれも「おきばりやす!おきばりやす!」、画像提供:永楽屋)

    経営は、時の流れに任せる

    ────社長に就任された当初、「手拭いを"老舗ブランド"にして何かできないか」とお考えになった通りの展開で、ご事業が発展しておられます。

    私は基本的には、"時の流れに身を任せる"という考え方でずっとやってきました。当社でいえば、タオルの卸売事業で債務超過になってしまった。私が一からやるなら、自社ブランドを立ち上げるしか、中小零細企業の道はないと考えた。せっかく、この京都という街でお商売をさせていただいて、400年近い歴史もある。"京都"と"老舗"という2つの看板を使って何かできないかということを考えたわけです。

    経営というのは、今、与えられていることの範囲でしかできませんよね。ですから時の流れに身を任せて、その時々に対応していくしかないんです。言い替えれば、いかに時代を読めるかどうかということです。時代が読めれば、商売はうまくいきます。

    ────時代を読んでも失敗する...ということはありませんか。

    そんなことは、しょっちゅうです(笑)。売れないと思ったものが売れることもありますし、「完ぺきや」と思っても売れないこともよくあります。「絶対にいける」と思ってコケた経験は、何回もありますよ。お商売というのは、やってみないとわからない。それが商売なんです。だから、手堅い人はやりたがらないですよね。

    ────しかし、挑戦しなければ成功もありません。

    成功はないし、成長もないですね。ただ、自分自身の力は知れています。ですから、いかに追い風に乗れるかということが大きいんです。追い風に乗るためには、何かしら少しずつ"種"を蒔いて、何かを起こしておくことが必要です。かといって、あんまり思いきって突っ込んでも会社が傾いてしまいますから、資金が許す範囲のことになりますが。何が当たるかわからないんですから、少しずつリスクヘッジをしていくべきだとは思いますね。

    ────細辻社長は、将来の計画をどれくらい先までお考えになるのですか。

    10年先、20年先のことも、もちろん考えます。でも、それはあくまでも今現在の予想であって、時代は変わっていくものです。それを「こうと決めたから、そうしないといけない」というような頑固一徹の考え方は、今の時代には向きません。それこそ、坂本龍馬のように柔軟に対応しないと。商品も、手拭いでずっといければいいですが、それ以外の事業に広がる可能性もありますよね。

    ────そういった可能性もお考えなのですか。

    もちろんです。手拭いの前はタオル屋でしたし、その前は着物屋でしたのでね。この3つは"繊維"ということではつながっていますが、例えば手拭いの染色技術を食料品に活かすということだってあるかもしれませんし。

    ────"染める"が次のキーワードになるということでしょうか。

    いえ、これは単なる例えで、この先何が当たるかなんてわからないですよ。それがわかったら、みんな大金持ちです(笑)。だから1つのことに固執せずに、時の流れに身を任せて変わっていくということなんです。"時"と、それから"場所"ですね。大切なのは"時"と"場所"。2009年に東京に初出店しましたが、東京は難しいです。それこそ、変化が激しいですね。

    ────テナントの入れ替わりが激しいということですか。

    そうです。飲食店でもすぐ変わりますね。京都は、変化しない街なんです。そもそも、お寺の位置が変わりませんから、参拝に来た方の"人の流れ"も変わらない。お店の細かい入れ替わりは多少はありますが、大きくは変わらない街なんです。それに比べて、東京は変化が速くてついていくのが大変です。例えば店舗の償却期間一つとっても、ものすごく短く考えるんですね。びっくりします。

    でもそれはそれで、東京は日本のトップクラスの人たちが集まっているところですから、その方たちに合わせるようなことをやっていかないと。「東京は合わん」などと言っていたら、始まらないですね。2010年の秋には、2ブランドの東京への出店を予定しています。東京は世界への近道ですから、これからもより一層柔軟に"時"と"場所"に合わせた対応をしていきたいと考えています。

    どれほど変化に対応しても、商売の原点だけは変わらない

    ────柔軟に変化される一方で、老舗として変わらず守り続けておられるものは何でしょうか。

    日本人の生活文化に貢献するものをつくっていく。そして、お客さまに得をしていただく。この"商売の原点"だけは、変わりません。そのために、われわれの技術を使うものが今は手拭いだけれども、時代の風向きが変わってきたら事業は変化させていく。それは、時代が言う通りにするしかないんです。けれどもその行く先は、お客さまに得をしていただくことにある。これだけは変わりません。

    "得をしていただく"というのは、喜んでいただく、感動を与える、癒しを与える...、いろいろな形がありますが、お客さまに得をしていただいて、われわれもちゃんと採算が取れて、健全な経営が成り立つ。商売というのは、それしかありませんよね。

    それが健全な商売にならないということは、どこかがおかしいんです。時代を読めていないのか、読めていたとしてもそれに準ずるものをつくっていないのか。世間やお客さまは何も悪くありません。われわれは自然界に生きているわけですから、自然に逆らうことはできない。ですから、やはり "時"なんですね。商売の原点は守りながらも、柔軟に変化していくということです。

    といいつつも、私はこうして何かを一概に言うのは、好きではないんですよ。私自身が言うことも徐々に変化していますので、「以前はこう言っていたやないですか」と言われても困りますから(笑)。

    ────キーワードは"変化"ですね。ありがとうございました。

株式会社永楽屋
代表取締役社長 細辻 伊兵衛さん

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    【長寿企業研究】
    起点は「自社事業の検証」。
    倒産危機から経営を立て直し、創業約400年の事業を存続(前編)

     

    「老舗企業の歴史は変革の歴史」と言われるが、京都の老舗織物商、永楽屋もその一社だ。代々、太物商(綿・麻の織物商)を営んできた家業を戦後にタオル卸に転換。しかし、海外のライセンスブランドに太刀打ちできずに倒産の危機を迎え、1999年に事業の大改革に踏み切る。再建を目指していた細辻社長は昔、自社で作っていた「手拭い」に事業立て直しの糸口を見出す。「現代のどんなに素晴らしいアーティストとは一味違った」魅力を感じたという。周囲からの反対を押しのけ、従前の様に汎用品/仕入品ではなく"自社発"老舗ブランドを立ち上げ、復活を遂げた。時代の流れとともに市場、競合、顧客が変わり、企業が提供できる付加価値も変わる。経営リーダーに求められることは環境変化に照らして自社事業を検証できる客観的な視点である。
    『長寿企業特集』第三回目は、永楽屋十四代当主・細辻伊兵衛さんにお話を伺います。

  • 永楽屋本店(画像提供:永楽屋)

    株式会社永楽屋 http://www.eirakuya.jp/)1615年創業。創業家の先祖が、戦国時代に永楽通寳の紋を使用していたことから、屋号を『永楽屋』とする。代々、"太物"と呼ばれる木綿・麻の織物を扱い、第二次世界大戦後にタオル卸業に業態転換。全国有名百貨店との取引を広げるが、ライセンスブランドを持たなかったことから業績が悪化。1999年には債務超過に陥り、倒産の危機を迎える。同年に十三代当主が引責辞任し、十四代細辻伊兵衛氏が代表取締役に就任。明治から昭和初期にかけて同社が扱っていた手拭いを復刻し、2000年に『京三条町家手拭「永楽屋 細辻伊兵衛商店」』を再開。自社ブランドを立ち上げたことで経営の再建を果たす。2004年からは多ブランド化に乗り出し、新感覚の手拭いブランド「RAAK(ラーク)」、帆布鞄専門店の「伊兵衛 Ihee」、風呂敷専門店の「伊兵衛 ENVERAAK」ほかを展開。
    企業データ/資本金:2600万円、従業員数/100名、店舗数/22店(2010年5月末現在)

    IHEE HOSOTSUJI

    1964年生まれ。高校卒業後、卓球の実業団選手として大手自動車メーカーのグループ企業に入社。1985年にアパレル業界に転身し、海外系ブランドの店長として高い業績をあげる。1991年に永楽屋十二代当主の長女と結婚して永楽屋に入社、翌年に十二代当主が急逝。叔父が十三代目を務めた後、1999年に十四代細辻伊兵衛を襲名し、代表取締役に就任。

  • 自社の"個性"を打ち出せなかったタオル卸時代

    ────細辻社長は27歳で永楽屋さまにご入社されましたが、会社にはどのような第一印象を持たれましたか。

    まず感じたのは、自社の独自性を打ち出すことが難しい事業だということですね。当時はタオルの卸売業が主力事業でしたが、タオルは手拭いと似ているようでいて、実はまったく異質な事業です。商品の需要というのは"自家需要"と"進物需要"に分かれるのですが、当時のタオル業界は"進物需要"がほとんどでした。これの何が難しいかといいますと、進物というのは体裁が重視されるんですね。贈った相手の方に「良いものをいただいた」と思っていただける体裁が大事になる。つまり、ブランドもののタオルが重宝されるわけです。なおかつ、デザインの個性が強すぎてもいけませんから、多くの方に好まれるものが売れていくんですよ。

    しかし、当時の私は"自家需要"や"進物需要"という言葉すら知らず、前職のアパレルと似たような業界かなという程度の考えでいたわけです。「これからは、タオルでファッションや」と。しかし入ってみたら、ファッション業界とは違う世界でした。

    むしろ逆に、異質な存在は私の方だったかもしれません。その頃の私は、髪を金髪に近い色に染めて、当時流行りのベルサーチのネクタイを締めていったりしていましたので(笑)。今は京都らしくしていますが(笑)、17、18年前はそんな感じで周囲の反発を買ったこともありましたし、何かを言うにしても、業界をよく知らないままでは理解してもらえない。ですから、まずは既存のお取引先にタオルの営業に行き、問屋さんの勉強をすることから始めたんです。

    ────まずは事業の仕組みを知ろうということですね。

    ええ。ただ、例えば"バーバリー"といった強いブランドがあれば、自信を持って営業できますが、当社にはそういったライセンスブランドがありませんでした。商品といえば、ノーブランドの無地のタオル。非常に売りにくかったんですね。タオルで会社を再生させることは、非常に時間がかかると考えました。それを確信した経験でした。

    本家を売却し、会社の再建に乗り出す

    ────その後、1999年に14代当主として永楽屋を継承され、事業の大胆な改革に乗り出されました。

    私が永楽屋に入社した翌年に、12代当主の義父が急逝しまして。叔父が13代目として代表取締役に就任したのですが、事業を立て直すことができず、ついに債務超過になってしまったんです。永楽屋は代々、本家が株のほとんどを所有しますから、何かあったときには家長である私が責任を取ることになります。それならば、経営の舵も自分の手でとりたいと考えたのです。

    そこでまずは、本家(自宅)を売却して、事業再建の元手を作りました。土地建物だけでなく蔵にあった古道具も全部売って、仏壇は大きすぎてマンションには入りませんでしたので、お寺に預かってもらいました。そのうえで、叔父に「辞めていただきたい」と退任を迫ったのです。会社の財務がそこまで悪化していたということと、私が本家の売却にまで踏み切ったことで、叔父も当時の役員の方々も、みなさん辞める気になっていただいたようです。

    ────歴史のある本家を売却されることに、迷いはありませんでしたか。

    まったくありません。会社は社員の給料も払えないような状況だったんです。周囲には反対されましたが、本家は私が家長として受け継いだもの。決断に迷いはありませんでした。結果として、売却で得た資金を退職金に充てて当時30名いた社員を7名にまで減らし、借入金も返済して身軽になった。じゃあ、これからは自分が納得のいく事業をやろうと。そう考えて始めたのが、明治から昭和初期にかけて当社がつくっていた手拭いの復刻だったのです。

    不可能に挑戦した"老舗ブランド"復活への道

    ────社長ご就任時には、手拭い事業の立ち上げを決めておられたのですか。

    いいえ、そのときはまだ何も考えていません。"復刻"なんて、そんなにすぐに思いつきませんよ(笑)。簡単に思いつくんやったら、先に誰かがやっているはずでしょう。ただ、気にはなっていました。本家の売却で倉庫を整理していたときに昔の手拭いが出てきまして、非常に多くの絵柄が残されていたんです。ああ、永楽屋にはこんな面白いものがあるやないかと。そして、一日の業務が終わってから手拭いを写真に撮って、関連する資料を調べるということを毎日続けていたんです。

    ────なぜ、手拭いが気になられたのですか。

    明治、大正、昭和とそれぞれの時代につくられた柄は、どれも時代背景を物語っています。それは、その当時に生きていないとわからないことなんですね。現代のどんなに素晴らしいアーティストとは一味違ったものです。つまり、"老舗"であることが活かせるわけです。そうして次第に、この手拭いを"老舗ブランド"にして、何かできないかなと思うようになっていったんです。

    ────手拭いの染色に使う原版なども残っていたのですか。

    いえ、版はございません。残っていたのは、手拭いの現物だけです。ですから、忠実に復刻するためにはどうするかということが問題になりました。昔はPL法(製造物責任法)といった法律もありませんから、色落ちするような染料も使っていたんです。それでよかった時代なんですね。でも、今は違います。高品質で安定したものづくりをしていかなくてはいけない。また、昔は着物という事業の柱がきっちりとありましたので、手拭いは趣味程度につくっていたものでした。それを事業の採算ベースに乗せるのも非常に困難なことで、周囲からは「無理や」といわれたんです。できるのやったら、みんなやってるはずですからね。現に、百貨店さんなどにも興味を持っていただいて、手拭いを見に来られたこともありましたが、誰も手をつけませんでしたのでね。

    ────その難題を、どう解決されたのですか。

    新しい技術を開発していこうという考え方です。不可能を可能にしようと思ったんです。それが"ブランド"ですから。そこでまずは、染織業界のトップクラスの職人や技術者の方々にお会いして、手拭いの復刻に何とか協力してもらえないかと。そういう話からスタートしました。

    ────すぐにはお取引いただけないこともあったと伺っています。

    当初は、京都の老舗だということを前面に打ち出していたのですが、どうもそれが胡散臭かったようです(笑)。それに、職人さんは話すことが得意でない方も多くて、理路整然と説明しても通らないこともあるんですね。私自身が、アパレル業界に入る前は部品メーカーで工員をしていましたから、技術者の方の気持ちはわかるような気がします。それをお互いお話し合いをし、「この人と付き合ってもいい」と思ってもらえるかどうか、なんですよ。

    ────そのためには、どのようなことが大切になるのでしょうか。

    契約の透明性を高めて、「永楽屋の仕事ならしてもいい」と思われるような取引をするということです。また、なるべく高く買うということも、すべてそうできているわけではありませんが、心がけています。普通は値切るでしょう。でも、その会社が困っておられたら、私は言い値で買います。といっても、みなさん正直な方ばかりですので、極端に高い値段はつけないんです。言われる値段は、それがなかったらやっていけないという話。それを叩いたところでね...。

    ────しかし、繊維業界ではその"業者叩き"が起こっています。

    だから、みんな中国に行ってしまったんですよ。そして、日本のものづくりがなくなってきて、えらいことになってるんです。では、どうすればいいかといえば、"限定したものづくり"しかないんです。

    昭和初期の柄を再現した"復刻版"の手拭い。当時の永楽屋では、毎年百種類の色柄の手拭いを発表する頒布会「百いろ会(ももいろかい)」を主催し、染色の最高技術を注ぎ込んだ数々の名品が生み出された。(写真左「月夜の舞妓[昭和8年]」、右「私は昔『桃太郎』と云われてました[昭和7年]」、画像提供:永楽屋)

    現当主である14代細辻伊兵衛氏が発表した新柄の手拭い。糸も、手拭いでは通常使わない番手の細いものを使用し、きめ細かな生地を実現。染色は、細やかな絵柄を表現できる友禅染。すべて職人の手作業で染められている。(写真左「すだれ朝顔」、右「鯉」、画像提供:永楽屋)

    タオルの卸業から、手拭いの自社ブランド立ち上げへ。「事業転換の明確な道筋が、最初から見えていたわけではない」と細辻社長は話しますが、"稀少価値のある高品質な商品だけを扱う"という信条は、一貫して経営の根底に流れています。信条は曲げずに、戦術は柔軟に。後編では、細辻社長の"変化の経営論"を伺います。

*続きは後編でどうぞ。
  長寿企業研究──起点は「自社事業の検証」。
  倒産危機から経営を立て直し、創業約400年の事業を存続(後編)

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