2009年6月アーカイブ ..

株式会社ベル
代表取締役 奥斗 志雄さん

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    売上高の4割を失う危機から復活した
    愛と感動のオンリーワン企業」(後編)

     

    大阪を中心にビルメンテナンス事業を手がけるベルは、バブル崩壊後の2000年に売上高の4割を一気に失うという会社存亡の危機に直面しながらも、「愛と感動のビルメンテナンス」を標榜するオンリーワン企業として復活を遂げました。何が会社の再生を可能にしたのでしょうか。昨今の経済状況により、多くの企業が陥っている苦境を脱出するヒントを求めて、代表取締役 奥 斗志雄さんに伺いました。

  • 株式会社ベル http://www.ai-kando.jp/

    1992年設立。オフィスビルの清掃、設備管理、建物修繕、常駐警備など、ビル管理を総合的に手がける。「愛と感動のビルメンテナンス"ありがとう!""そこまでするか!""さすがプロ!"」をコーポレートスローガンに、真の顧客満足を徹底して追求。顧客満足と従業員満足は表裏一体であると考えて、働きがいのある職場づくりと、従業員の心の育成に力を入れる。2004年には有志の同業他社と、日本ビルメン経営品質協議会を設立。日本のビルメンテナンス業界を変えるための活動を積極的に展開している。
    企業データ/資本金:1300万円、従業員数/135名(本社スタッフ15名/現場スタッフ120名)※2009年5月現在

    TOSHIO OKU

    1960年生まれ。高校卒業後、OA機器の販売会社に就職し、23歳で同業他社に転職。年間優秀セールス賞を毎年受賞する。30歳で営業所長に就任。マネジメントを2年間経験した後に、かねてより温めていた経営者になる夢を実現するべく32歳で退職。同年、ベルを設立する。東大阪青年経営研究会相談役、日本ビルメン経営品質協議会幹事。

  • 志を同じくする経営者と出会い、"ベル流"の改革が始まる

    ────組織風土がギクシャクしてしまったのは、改革を受け入れる土壌の醸成よりも、経営計画やピラミッド型の組織など「形式」の導入を先行させたことにあったのでしょうか。

    一番はそこですね。会社を伸ばすために必要なのは、数字ではないんです。やらされ感がある組織では、ダメなんですね。数字の裏側には、「何のための数字か」というビジョンがいります。挑戦したくなるような、組織の風土や文化をつくることも必要です。そのことに気づかせてくれた体験でした。

    ────その後、どのようにして今の組織風土を築かれたのですか。

    これがまた「縁」なんですが、僕らと同業のある会社との出会いがあり、そのことが今に至る転機になりました。僕らなりの経営計画を立てて、理念を実現するためにいろいろなことを一生懸命やっていたら、それが大阪府中小企業家同友会で話題になり、「それを発表してほしい」と、講演を依頼されたんです。そこで僕の発表を聞いた人が、「高知県に『四国管財』という、あなたの理想を実現している会社があるよ」と教えてくれまして、それはぜひ話を聞きたいと思い、幹部を4人連れてさっそく訪ねました。

    どんな経営をしておられるのか、ベンチマークさせていただくことが目的でしたから、紹介してもらうための手はつくしましたが、行ってみたらたまげましたね。まさに、10年後に僕らが目指したい姿はこれだという会社だったんです。一緒に行った幹部も「ホンマですね」と、みんなして目からウロコで。やれば実現できるんだと、大きな勇気をいただきました。

    ────どのような点に、理想を見出されたのですか。

    組織風土です。社員の方はみんな仲がいいし、優しくて温かみがある。優良な顧客も持っておられました。なぜそれができていたかといえば、裏側に仕組みをちゃんと作っておられたんです。中でも一番大切にしておられたのが、コミュニケーションを活性化するための仕組みでした。社員教育も、心の育成を徹底的にされていましたね。

    例えば、お客さまからのクレームの電話を四国管財さんでは「ラッキーコール」と呼び、当時は「クレームを増やす」ということを旗揚げしてやっておられたんです。些細なことも報告・連絡・相談して、サービスの改善につなげようということなんですね。今まではクレームと見なさなかったことも吸い上げるから「クレームが増える」わけですが、それをどんどん受け入れるようなコミュニケーションに力を入れておられたんです。

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    ※現在はベルでもクレームを「ラッキーコール」と呼び、苦情は即座に全スタッフの携帯電話にメールで配信している。同時に、顧客から届く感謝の言葉も全員にメール配信。いいことも悪いことも、全員で共有する仕組みをつくっている。

    顧客には、「イエローカード」と呼ぶ手書きのアンケートカードを配布。寄せられたカードは「お客様からの愛のメッセージ」として社内に張り出されている。
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    ────ミスやクレームを「今後の改善のヒント」と前向きに捉えることで、自発的に報告する風土が生まれるのですね。

    そうです。トップにそういう姿勢があるから、職場のコミュニケーションも活発ですし、みんな明るくて自信を持って働いておられました。そのことが、すごく印象的でしたね。理念は、仕組みとセットになって初めて実現できる。そのことを実感し、このベンチマークの経験から、いろいろな改革が始まっていったんです。

    外部の「知」を求め、学んだことを着実に実践につなげる

    ────具体的にはどのようにして、理想の姿に近づいていかれたのでしょうか。

    これも本当に「縁」なんですが、この後にさらに2つの学びがあり、改革の方向性が明らかになっていきました。1つ目の学びは、「日本経営品質賞、経営品質向上プログラム」です。「卓越した経営」を目指し、自らの経営を自らが振り返る事により、目指す価値実現に向けた経営へ変革する。僕は、2003年に四国管財さんを訪問したのとほぼ同時期に、京都経営品質協議会という団体のセミナーに参加しているんです。そこで「人間性を尊重した科学的な経営が大切だ」という講演を聞いて、「これだ」と。四国管財さんで感じたこととバチッとあって、経営品質向上プログラムを学びながら進んでいこうと決め、アセスメントを実施していろいろなことを改善していきました。

    2つ目は、あるコンサルタントの方からの学びです。この方も、講演会を聞いて共感したことがきっかけでした。2005年のことです。その方が、経営者向けの6日間のセミナーを開かれていることを知り、「ここで学んで僕らの将来の計画をつくり直そう」と、部長を連れて参加したんです。そして、約1年をかけて経営計画に落とし込んでいきました。

    それと並行して、社内では、「ベルが大切にすべきものは何か」ということや、「気持ちのいい挨拶ってどんな挨拶?」、「本当の笑顔ってどんな笑顔?」というようなアホな会話まで(笑)、少しずつ話しながら文章化していきました。2003年に四国管財さんをベンチマークして、「新生ベル」に向けた経営計画ができたのが2006年のこと。実に、3年という月日がかかりました。

    さらに、経営計画の作成と並行して、いろいろな仕組みをつくって回し始めていたのですが、本気で取り組むのだということがなかなか社内に浸透しなかったんですね。そこで、これは社員が本気になるきっかけがいるなと思いまして、「感動経営計画発表会」という、新しい船出を宣言するためのイベントを企画したんです。本気を伝えるための場ですから、単なる経営計画の発表会ではインパクトがありません。準備にはかなり力を入れました。

    まず、事前に僕から方針書をみんなに配り、おのおののビジョンを自分の言葉で考えてきてもらうことにしました。みんな何日もかけて考えてくれ、会社に泊まり込んでつくった人もいました。さらに、会社のシンボルマークといった、理念を表すための制作物もいろいろとつくり込み、会社のサイトのアドレスも「愛と感動」をローマ字にした「www.ai-kando.jp」に変えました。予算をかなりかけることになりましたが、そこまでやると中には「ついていけない」という社員も出てくるんですね。その結果はちゃんと出てきました。

    このときにつくられた、コーポレートスローガンを配置したシンボルマーク。名刺や封筒などに刷られ、目指す姿を対外的に発信している。

    まず、新人が感動経営発表会の翌日から出社しなくなりました。「ついていけません」と1カ月後に辞めた社員も1人いました。船出したら、いきなり脱出者が出てきたんです(笑)。そのほかの社員についても、僕の考えをしっかり受け止めてくれたのは、実感としては全体の6割くらいでしょうか。もう少しいるかなと思いましたが、まだ見抜けていないところがありましたね。

    しかし、外部環境が変われば、意識は変わります。「ほめる文化」をつくることにも並行して力を入れたことで、徐々に浸透し始めました。

    ────「ほめる文化」とは、どういうものですか。

    人の喜びを自分の喜びにできる文化です。もともと、社員同士が感謝の気持ちを伝える「スマイルカード」というものを運用していまして、それに加えて「スマイルカードもらってる大賞」や「ベストキーパー賞」などの、表彰制度を設けたんです。「社長と飲み会賞」なんていうものもあります。さらに、社員の誕生日は必ずみんなでお祝いをし、賞賛する文化を1つ1つつくっていきました。そうこするうちに、経営発表会の一カ月後に辞めたベテラン社員が、戻ってきてくれました。やらされ感を持っていた社員もついてくるうちに少しずつ変わり始めたんです。

    年間表彰を受けたスタッフの表彰状を社内に掲示。表彰状に書かれている言葉は、一人ひとりすべて異なる。ほめられる喜びを知った人は、人をほめることができるようになる。「北風と太陽」に例えれば、太陽の力で社員を伸ばすのが、ベル流の人材育成方法だ。

    感動経営計画発表会の3カ月後には、コーポレートスローガンや経営理念を、18の行動規範にまとめた「ゴールドスタンダードカード」を作成し、全社員に配布しました。すべての基本になる、僕らの共通の価値観です。スタッフは常にこのカードを所持し、毎朝の朝礼で1項目ずつ取り上げて各自の考えを発表し、頭と心に浸透させています。こういった取り組みを通して、会社全体が少しづつ変わっていったんです。

    結局、会社を改革するときには、ある種のステージ転換がいるのかもしれませんね。なだらかに変化する「進化」が一番いいのでしょうが、どこかのタイミングでは、一段、ポンと上げなくてはいけないときがある。そこで一番大切なことを伝えて社内に土壌ができれば、後はなだらかな「進化」でいいんですよ。


    ゴールドスタンダードカード。「コーポレートスローガン」「経営理念」「ミッション」「従業員への約束」「We are Basic(行動規範)」が、名刺サイズに折りたためるカードにまとめられている。行動規範のページの拡大図は、自社サイト内にも掲載されている。
    http://www.ai-kando.jp/greeting/index.html

    ────経営計画の通りにいかない、ということはありませんでしたか。

    もちろん、あります。経営計画は上期と下期にわけて、2日間かけてみんなで話し合いをしながら作り、進捗のチェックは四半期ごとに丸1日をかけて行います。その中では、できたこともあれば、できていないこともあります。でも、できていなければ翌年に持ち越すだけ。大きな問題ではありません。

    ────計画が狂うことも、織り込みずみだと。

    人の成長なんて、思う通りにいかないことばかりですから。ただし、なぜできていないのかは確認します。やったけれども結果がついてこなかったことは怒りませんが、やっていなければかなり怒りますね。「自分で約束したことだろう」と。そこはうるさくいっています。

    大切なのは、みんなが自主的に考えて自発的に取り組む環境をつくることなんです。ですから僕は、みんなが過剰な目標を持たないように計画を止める係(笑)。「これはやらなくていい」、「これもやるな」と。そうやって「これだけはやろう」と決めたことでも、できないことのほうが多いですからね。

    でも、「亀の歩み」でいいんですよ。ある方からは、「カタツムリの歩みやな」といわれたこともあって、いわれてみればそうだなと(笑)。それでも、あきらめずにやり続ければ、夢や目標は必ず叶うんです。

    人財を育てることが、他社と差別化するための最大の戦略

    ────計画を立てるだけでなく、実行するプロセスも大切にする。身の丈にあった目標で成功体験を得る。こうしたことの積み重ねが大切なのですね。

    そうです。結局、社員一人ひとりと向かい合って関心を持ってあげられるのが、中小企業ならではの利点なのだと思います。さらにいうなら、その人の人生を預かって、ライフプランまで一緒に考えるくらいに、社員のことを考えなければいけないと思うんです。

    しかし今は、大手企業のような合理的な手法を部分的に取り入れて、テクニックでうまく使おうとされるケースも多いですね。人の人生を預かって、その人を育て、幸せにするために経営者は何ができるのか。それを、もう一度考えてあげてほしいなと思います。

    当社では、新卒の社員には「社長塾」といって、延べ24時間ぼくと向き合って、人生観から思想観まで含めてライフプランを考えるということをしています。自分自身と向き合って、何のために働いているのか、未来をどうしていきたいのかを考えてもらう時間をとっているんです。

    こうしたことが、結果的には他社との差別化につながります。ビルメンテナンスのような、競合他社と比較しにくい業種においてお客さまに選ばれるには、「この会社はすごい」と口コミが広がるようにする戦略が大切。広告などの広報活動も大事ですが、まずは中身の充実を図って一人ひとりをしっかりと育て、口コミで広がる状態をつくりながら広報活動をしていくことが効果的な戦略だと考えています。

    そのためには、どんな人財に育てるのか、どんな経営を目指すのかという基準が明確になっている必要があります。そのためにも、僕らが立ち上げた日本ビルメン経営品質協議会などの活動を通して、こういった基準づくりも含めて、業界を変えるような情報を何らかの形で発信していきたいと考えているんです。

    ────自社のことだけでなく、業界全体を見すえて活動されているのですね。

    業界と、あとは地域社会もですね。日本のことは大企業に任せて、僕ら中小企業がやるべきは、地域社会をよくすることなんです。地域社会に貢献できる、日本一の感動企業になる。これが、僕が一番やりたいことなんですよ。

    夢や目標というのは、「利己」もあってもいいけれども、志、「利他」を考えられるようになると、本当に強いものになります。組織風土のつくり方や人財の育て方といったノウハウを開示して仲間づくりをして、仲間と一緒に学びながら、地域社会や業界をよくしていきたいと思っています。

    ────ありがとうございました。

株式会社ベル
代表取締役 奥斗 志雄さん

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    売上高の4割を失う危機から復活した
    愛と感動のオンリーワン企業」(前編)

      

    大阪を中心にビルメンテナンス事業を手がけるベルは、バブル崩壊後の2000年に売上高の4割を一気に失うという会社存亡の危機に直面しながらも、「愛と感動のビルメンテナンス」を標榜するオンリーワン企業として復活を遂げました。何が会社の再生を可能にしたのでしょうか。昨今の経済状況により、多くの企業が陥っている苦境を脱出するヒントを求めて、代表取締役 奥 斗志雄さんに伺いました。

  • 株式会社ベル http://www.ai-kando.jp/

    1992年設立。オフィスビルの清掃、設備管理、建物修繕、常駐警備など、ビル管理を総合的に手がける。「愛と感動のビルメンテナンス"ありがとう!""そこまでするか!""さすがプロ!"」をコーポレートスローガンに、真の顧客満足を徹底して追求。顧客満足と従業員満足は表裏一体であると考えて、働きがいのある職場づくりと、従業員の心の育成に力を入れる。2004年には有志の同業他社と、日本ビルメン経営品質協議会を設立。日本のビルメンテナンス業界を変えるための活動を積極的に展開している。
    企業データ/資本金:1300万円、従業員数/135名(本社スタッフ15名/現場スタッフ120名)※2009年5月現在

    TOSHIO OKU

    1960年生まれ。高校卒業後、OA機器の販売会社に就職し、23歳で同業他社に転職。年間優秀セールス賞を毎年受賞する。30歳で営業所長に就任。マネジメントを2年間経験した後に、かねてより温めていた経営者になる夢を実現するべく32歳で退職。同年、ベルを設立する。東大阪青年経営研究会相談役、日本ビルメン経営品質協議会幹事。

  • 起業7年目に、大きな経営危機を迎える

    ────「愛と感動のビルメンテナンス"ありがとう!""そこまでするか!""さすがプロ!"」をコーポレートスローガンに、同業他社との差別化に成功しておられます。起業されてから今に至るまでには、大きな経営危機をご経験されたと伺いました。どのような危機をどう乗り越えて、現在の会社を築かれたのでしょうか。

    経営危機を経験したのはバブル崩壊後の2000年、会社を立ち上げて7年目のことです。下請けでメンテナンスを受託していた物件が次々と売却され、売上高の4割を一気に失う事態に直面したんです。

    そもそも、僕が起業にビルメンテナンス業を選んだのは、やり方によっては伸ばせる業界だと可能性を感じたから。前職のOA機器の営業時代に、小遣い稼ぎにビル清掃のアルバイトを副業で始めたことがきっかけでした。現場に入ってみると、マナーや身だしなみなど、改善できるところがたくさんありました。経営をもっとシステマチックにして、スタッフの人間力を高めていけば、仕事をもっと広げられるのではないかと思ったんです。

    そう考えて起業したものの、物件を売られてしまったら、どうしようもありません。生命保険会社の研修センター、大手電機メーカーの社員寮など、大口の物件が次々と売却され、取り壊されてしまいました。銀行にいたっては、他行との合併でその銀行そのものがなくなってしまった。しかも当時は下請けでしたから、物件がなくなることを知らされたのは3月の24日ごろ。それで、「契約は、今年度で打ち切りです」と。要するに1週間後ですよ。

    ────その事態に、どう対応されたのですか。

    最初は受け入れられなかったですね。急に代わりの仕事が取れるはずもなく、「どうしよう」と、もうそればっかりです。少しずつ新規の営業を始めていた矢先のことでもありましたので、「もう少し待ってくれていたら」という思いもありました。時代の流れを読んでいれば、ある程度は予測できたことなのに、自己責任として捉えることができない。こういうときって、環境のせいにしてしまうんですね。

    ────社員の方々は、どんなご様子でしたか。

    「社長が何とかしてくれるやろう」、ですよ。それまでもずっと僕が何とかしてきましたから、そんな組織しかつくっていなかったんですね。仕事がないから、事務所や倉庫や車の掃除をしてもらうんですが、3日もあればピカピカです(笑)。4日目からはみんな、笑いながらのんびりとお茶を飲んでいました。僕は、みんなが生き生きと笑顔で働ける会社をつくりたかったんですが、そのときは「こういう笑顔ではないな」と思いましたね。これは違う、と。

    一方でこっちは、「どうしよう」と必死でシミュレーションです。お金がないとなったら、お金のことを計算し始めるんですよ。「社員に辞めてもらったらどうなるかな」とか。「自分が死んだらどうなるかな」と考えたこともありました。その方が楽じゃないですか。解決策なんて何も浮かばなくて、「この世におらん方が楽やなあ」と。「お金(保険金)も入るから、それで会社は何とかいけるかもしれない」とかね。

    悩んでいるときというのは、冷静な考えは出ないものなんですね。借り入れをしても返済する自信がありませんでしたから、「お金を借りて、前向きにやっていこう」という勇気も持てない。過去の経験の中でぐるぐると考えるばかりで、ちょっと何かしてみても効果が出ないから「やっぱりあかんな」と。「できない」、「難しい」、「どうしたらいいかわからない」。出てくる言葉は、この3つだけ。一歩を踏み出すということが、できないんですね。

    何のために経営しているのか。原点回帰で苦境を打開

    ────その状況から、どのようにして抜け出されたのですか。

    きっかけは、子どもの存在でした。僕には子どもが3人いまして、当時は、子どもの生命保険金はいくらあるか、なんていうことも考えていたんです。悪魔のような自分がいるなと思ったんですが、知らず知らずにそんなことも考えていました。

    それなのに、ある日会社から家に戻ると、当時4歳だった長男坊主がワーッと抱きついてきたんです。僕がそんな心理でいるのに、子どもは何の疑いもなく抱きついてきた。それを迎えながら、恐ろしいことを一瞬でも考えた自分に気がついて、全身から汗がブワーッと吹き出しました。「僕は何を考えとったんや」と。子どもを抱きしめて、「ごめんな」と心の中で謝りました。そこで、気持ちがパーンと切り替わったんです。悩んでいた期間は、1週間ぐらいだったでしょうか。

    何のために経営しているかといえば、家族や社員を幸せにするためなのだから、僕が考えていたことは間違っていた。「これはもうやるしかない」と、気持ちが決まりました。よく考えれば、前年度の業績は悪くありませんでしたから、借り入れはしようと思えばできるんです。返済する自信がなくて借りられずにいましたが、「借りるだけ借りて、あかんかったらそれまでや」と(笑)。

    気持ちが切り替わると、「今までのやり方を続けていてはあかんな」と、将来を考えられるようになります。まずは、経営計画をしっかりとつくろうと考えました。でも、つくりかたがわからない(笑)。「どうしようか」と思案していたら、加入していた中小企業家同友会がそういった勉強会を開いていることを知り、すぐに参加しました。

    そして、そこで講師をしておられた経営コンサルタントの方にコンサルティングをお願いし、経営計画を立てて、どんな会社にしたいかをつくり込んでいきました。組織もつくり直しました。つまり、業績が悪いときに投資をしたんです。

    理念に忠実に、あえて苦しい道を選択

    ────目指されたのは、どのような会社だったのでしょうか。

    まず、社員が誇りを持って働ける会社にするために、今後は下請けはしないと決めました。それまでは、「仕事に誇りを持とう」といいながら、受託先で自社の社名も出せない。経営者としても胸を張って「経営している」とはいえない状況でした。契約の打ち切りが直前にしか知らされなかったのも下請けだから。これではあかんなと思ったんです。

    選択肢としては、下請けのほうが仕事は取りやすいのですが、あえて苦しい道を選んだわけです。このときの決断のおかげで、当社の今があります。「どんな会社にしたいか」というビジョンを本気で考えてしっかりと持つことは、非常に大事なことだと思いましたね。

    実はそれ以前にも、会社のビジョンを考えたことはありました。起業して4年目のことでしたが、その頃になると「経営とは何か」といったことを考え出すんですね。そこで、商工会議所を訪ねたんですよ。「ここは経営を勉強できるところですか」と。僕にそう聞かれた商工会議所の方も戸惑っておられましたが(笑)、「それなら」と、経営者の異業種交流会を紹介してもらいまして、そこで出会った先輩経営者のもとに2年間通って教えていただきながら、経営理念を自分の言葉で書き出していきました。

    僕は本当に、人との縁に恵まれていまして、起業できたのも人との縁のお陰でしたが、このとき出会った先輩経営者の方は、今も師匠として尊敬する方。多くのことを、学ばせていただいています。

    その師匠のもとで、「経営理念とは何か」ということから始まり、2年間、師匠にいろいろなことを教わるうちに、僕の中から次の3つ言葉が出てきました。1つは、「自らの幸せのために働く」、2つ目は「お客さまを第一主義でよりよいサービスを提供する、3つ目に「社会に貢献し、会社の永続的な繁栄と従業員の豊かな生活を築く」。

    そうなると今度は、「豊かさとは何か」といったことが気になってくるんですね。「従業員の豊かな生活を築く」といっても、「それは金銭的な豊かさのことだけではないよな」とかね。そこでマズローやハーツバーグなどに関する書籍を読んでみたり、中村天風哲学や安岡正篤さんの思想、孔子の論語などについて師匠と問答を続け、経営理念を形にしていったんです。

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    ※アブラハム・マズロー(1908-1970):心理学者。人間は段階的に欲求を満たそうとするとする動機づけ理論、「欲求の5段階説」を唱える。
    ※フレデリック・ハーツバーグ(1923 - 2000):心理学者。人間の満足感・不満感に関わる要因には「動機づけ要因」と「衛生要因」があるとする、「2要因理論」を唱えた。
    ※中村天風(1876-1968):日本初のヨーガ行者。人間には人生のすべてを解決できる「潜勢力(せんせいりょく)」が備わっていると説く。天風会を創始し、東郷平八郎や原敬、松下幸之助などの名だたる名人が師事。
    ※安岡正篤(1898-1983):陽明学者、東洋思想家。一人ひとりが一隅を照らす力が集まれば、国全体を照らす万の力になるとする「一燈照隅・万燈照国」を説く。政界の「精神的な指導者」として、佐藤栄作首相から中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務める。
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    今の基礎になるこの経営理念ができあがったのは1999年6月のこと。これが2000年の経営危機で完全に本物になったんです。今振り返ってみれば、あの危機は、僕が通らなければならない道だったのだろうと思いますね。今でも、経営がブレることはあるんです。そのときに戻る原点は、やはり2000年のあのとき。本当に大切なことを学ばせてくれた経験でした。

    ※ベルの経営理念。従業員と顧客と地域社会の「三方得」を実現するものとして、以下の3項目が制定されている。
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    1.私たちは、自らの幸せ創造のために、人と人のつながりを大切にし、日々の仕事を通じ技能・人格を磨き上げます。
    2.私たちは、お客様第一主義で、よりよい技術力と高品質のサービスを提供します。
    3.私たちは、事業活動を通じ地域社会へ貢献し、会社の永続的な繁栄と従業員の豊かな生活を築きます。
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    再生の道半ば。理想と現実のギャップに、退職者が続出

    ────再生に向けた経営計画は、どのようにして社員の方々と共有されたのですか。

    まずは、目指す姿を具体的に共有するために、僕のビジョンを具体的に落としこむとどんな会社になるのかを、みんなで話し合いました。「5年後のベル」と題して、「業績は好調で、自社ビルの本社の最上階でみんなで楽しく幹部会議をしている」など、楽しい理想をどんどん書き出していったんです。

    でも、夢と現実は別なんですね。現実にあるのは、苦痛や壁ばかり。経営計画書にある数字や目指す姿は希望を述べたものであって、できる根拠なんてありません。だから、実際には「できない」ということの連続。できない理由ばかり並べ立て、お互いを攻めるギクシャクした組織になってしまったんです。

    組織形態も、一体感のあるフラットな状態だったのを三角形のピラミッド型に無理やり変えて、縦割りの指揮命令系統をつくりました。今までは僕に直接いえばよかったことも、管理職を通して報告・連絡・相談するという流れにしましたので、風通しがどんどん悪くなっていきました。

    毎月の経営会議は、できない理由を一生懸命聞いて予算を修正して、「次は頑張ろう」と。そんなことのくり返しです。すると、人というのは自己破壊していくんですね。幹部に向いていない人を無理にリーダーに仕立てましたから、本人にしてみたら「できないのにやらなければならない」という状態が続くわけです。

    徐々に自分らしくなくなってきて、部下に八つ当たりして、部下が辞めていく。現場で一番頑張っていた子が辞め、幹部にした人たちも辞め、毎年一人ずつぐらいつぶれていきました。その一方で、いろいろな方の助けもあって、売り上げはその頃から一気に上がり始めたんです。数字は伸びるけれど、人は減るという状況です。組織風土は、もう最悪でしたね。

    こんな会社にするつもりではなかったのにと思いながらも、経営計画はやりきらなくてはならない。辛い状況でした。でも1年2年と経つうちに、少しずつ変わってくるんです。残る人は残って、やる人はやってくれる。今残っているのは、そんな社員ばかりです。主要な人が、ちゃんと残ってくれたんですね。

    ただ、やはりどうも会社がよくなっているように感じませんでしたので、3年間ほど続けたところで、入っていただいていた経営コンサルタントの方と少し距離を置くようになりました。身の丈にあった僕なりのやり方をしたいなと、思うようになったんです。

    この後、"自社の身の丈にあった"改革の方法を探る、新たな模索が始まります。改革の方向性をどのようにして定め、どのように実行に移していったのか。後編では『ベル流』の改革の道のりについて伺います。

*続きは後編でどうぞ。
  売上高の4割を失う危機から復活した「愛と感動のオンリーワン企業」(後編)

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