2008年11月アーカイブ ..

日本原料株式会社
代表取締役社長 齋藤 安弘さん

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    祖父の会社を「再生」させた、3代目社長の経営改革(前編)

     

    カエルを水に入れてゆっくりと温めると、水温の上昇に気づかず茹であがってしまう──。ゆでガエルの法則さながらに、環境変化への対応が後手に回る企業はいまだ少なくありません。2009年に創業70周年を迎える日本原料も、20年前に齋藤安弘社長が入社した時点では、旧態依然とした体質が染みついていました。しかし、数々の施策を導入して組織の活性化に成功。祖父が興した会社を見事に「再生」させた日本原料代表取締役社長、齋藤安弘さんに改革のドキュメントを伺いました。

  • 日本原料株式会社 http://www.genryo.co.jp/

    1939年創立。初代社長、齋藤廣次氏により、ろ過砂の生産・販売会社として設立。1951年には日本濾過砂研究所を設立し、1968年には水道事業の発展に寄与した功績により、齋藤廣次氏が日本水道協会から有功賞を授与される。1970年に廣次氏が逝去し、妻である齋藤キン氏が2代目社長に就任。1998年に齋藤廣次氏の孫である齋藤安弘・現社長が3代目社長に就任。2002年に、ろ材交換の必要がない画期的なろ過装置「シフォン・タンク」を発表し、日本商工会議所会頭発明賞を初めとする数々の賞を獲得。齋藤・現社長が就任した1998年度の売上高10億4000万円から、2005年度の売上高25億2000万円へと、水処理のトータルプロデュース企業として右肩上がりの成長を続ける。

    YASUHIRO SAITO

    1962年生まれ。1986年に横河北辰電機(現・横河電機)に入社。1989年に日本原料に入社し、営業部、企画開発推進本部を経て、1997年に代表取締役社長に就任。数々の社内改革や新製品開発の陣頭指揮を取り、2007年には「文部科学大臣表彰科学技術賞 技術部門」の表彰を受ける。

  • 社員の平均年齢57歳。会社の時間は昭和で止まっていた

    ────齋藤社長は、創業社長の孫として26歳で日本原料に入社されました。それ以前は大手電機メーカーでSEをされていたそうですね。

    そうです。大学卒業後は横河電機に就職し、定年まで横河電機で働くつもりでいました。ところが、2年目の終わりごろに祖母から「そろそろ日本原料に入社してくれないか」という話がきたんです。私自身は、日本原料が何をやっている会社かも知りませんでしたし、入社するつもりもまったくなかったのですが、1年間ずっと口説かれまして、最後には1枚の色紙を見せられたんですね。私が1歳の誕生日のときの写真が真ん中に貼られ、その横に「夢でもいいから20年」と書いてある。「これは、おじいちゃんが『早く孫に会社を継がせたい』という思いで書いた色紙だ」と。

    祖父母には5人の子どもがいたのですが、すべて女の子で跡継ぎがいませんでした。だから、最初に生まれた男子の孫である私を跡取りにするというのが祖父の遺志だった。それを知って、「あなたにバトンタッチするために会社を続けてきた」と祖母がいうのを聞いて、気持ちが決まったんです。横河電機は私がいなくても問題ないけれど、この会社は私がいなければダメなのだとすれば入社しよう、と。

    しかし、入社した当時の社員の平均年齢は57歳。横河電機では平均年齢が20代後半の若い職場にいたのが、日本原料に来たら年寄りばかりです(笑)。パソコンも、横河電機では1人1台が当たり前でしたが、日本原料には1台もない。電卓ぐらいはあるだろうと思っても、それもない。計算は、みなさんそろばんです。私は、そろばんといえば裏返してシャーッと走らせる遊びにしか使ったことがありませんでしたが(笑)、とにかく、みなさんそろばんなんです。

    そして「まずは営業から」と営業部に配属され、「今日と明日の2日間をあげるから、これを全部計算しなさい」と分厚い書類の束を渡されたのですが、その当時あったポケット電卓というものでプログラムを組んで計算したら2時間で終わってしまったんですね。そこで「できました」と営業部長に持っていったら、「真面目にやれ」といきなり怒られまして、部長がそろばんで検算し始めるんですが、なぜか計算はちゃんと合っている(笑)。

    それでようやく「お前はすごい」と感心されたわけですが、それは私の計算が速いからでも頭がいいからでもなく、2時間で済む仕事に2日間をかけるというスピードの中で会社が動いていたということ。これはすべてのことにおいてそうで、そんな会社に私は入社したわけです。

    ────大変なカルチャーショックですね。

    カルチャーショックですよ。パソコンの1台ぐらいはないとまずいと思って稟議書を出しても、稟議に半年近くかかる。それも、「今のままで何の問題もない」という答えが当たり前のように返ってくるわけです。

    しかも私は営業なのに、誰も「営業に行け」といわないんですね。お客さまのところに連れて行ってほしいと営業部長にお願いしても、「お客さんは困ったときにはうちしか電話するところはないんだから、呼ばれてから行けばいい」という。製品の開発も祖父の時代で止まっていましたし、製品カタログも昭和45年に刷った物がそのまま使われていました。平成元年に、製品カタログが白黒。ありえないですよね(笑)。

    それに、社員の平均年齢が57歳ということは、3年経ったら大半が定年を迎えるということですから、これはどうにかしなくてはいけないと、若手の採用も会社に提案しましたが、それも通らない。何をいっても通らないんです。社長に直訴したら後でどういう扱いをされるかわかりませんから、それもできない。私は、入社したときから社内で煙たがられていたんです(笑)。今さら仕事のやり方を変えるなんてことはしたくないという人ばかりでしたから、異分子が入ってくること自体が嫌で仕方がないわけです。

    ただその間ずっと、社内の問題点を毎日レポートでまとめるということは続けていました。そして、テレビ局勤務で定年を控えていた伯父に見てもらっていたところ、私が入社した年の11月に伯父が副社長として当社に入ってくれることになり、企画開発推進本部という部署をつくってくれたんです。そこに配属されてからですね、やりたいことができるようになったのは。

    約20年ぶりに新卒採用を再開するも、全員が1年以内に退職

    ────まず、どのようなことから手をつけていかれたのですか。

    新卒の採用です。といってもバブル時代ですから、どこも青田刈り状態です。仲良くなった就職情報誌の営業マンにも「広告を出してもお金を捨てるようなものですよ」といわれるような状況でした。中途採用も、80万円かけて転職雑誌に1ページの求人広告を出しましたが、応募してきたのは1人でした。そうすると、面接ではなくてお願いになるんですね。「今、入社してくれたら、必ず役員候補になれます」みたいなお願いをして、入ってもらうわけです。

    そんな中途採用をしながら、新卒者をどう採用しようかと考えていたら、就職情報誌の営業マンから、そこが出す就職情報誌は東北6県の専門学校にだけは送らないという話を聞いたんです。地元志向が強い学生が多いから、東京や大阪の会社が載っている媒体を送っても仕方がないというんですね。それを聞いて、「ここだ」と。ここが私の行くところだと思って、その営業マンから東北と北海道の専門学校のリストをもらい、自分で全部回ることにしたんです。

    まずは北海道までダーッと車を走らせて、東北6県の専門学校を隈なく、生徒が7人ぐらいしかいない山奥の経理の学校も回りました。それでも、先生に会社説明をしようとすると、新聞か何かを読みだして全然聞いてくれないわけです。

    ────ひどいですね。

    そんな学校ばかりですよ。「先生っ!」とすがってみたり、土下座してみたり。いろんなことをしましたね。

    ────何校ぐらい回られたのですか。

    当時で80校近くありました。それを年に3回、約3週間かけて全部回りました。そうしたら3年目にようやく、6人の新入社員を東北の専門学校から迎えることができまして、約20年ぶりに新卒採用をスタートさせることになったんです。

    ────1年目、2年目の採用はゼロだったのですか。

    ゼロです。

    ────途中で、もうやめようとは思われませんでしたか。

    私にはもう、東北しかありませんでしたから(笑)。いくら地元志向が強いといっても、クラスに1人か2人は花の都・東京で働きたいと思っている学生が必ずいるはずだから、その学生をつかまえてこようと決めていたんです。といっても、学校を訪問するにも2色刷りのカタログじゃダメですから、会社案内を新しくつくったり、会社のロゴもつくったり。そういうことも、全部やりました。

    ────では採用した6人の方々は、大切な新入社員でしたね。

    大切ですよ。パソコン研修やマナー研修もしましたし、「水道水ができる仕組み」といったことも教えました。その当時には「私の提案制度(※)」という制度を導入していましたので、「会社の中でおかしいと思ったことを、何でもいいから書きなさい」と、会社に対する提案も書かせました。

    ※私の提案制度:年齢や社歴を問わず、会社にさまざまなことを提案できる制度。提案者には最低100円から最高50万までの報奨金が支給される。現齋藤社長が、前職の横河電機の制度を参考に導入した。

    そうしたら、みないろんなことを書いてくれたんです。この人たちは大切にしよう、これで世代交代も進むと喜んで各部署に配属したら、その途端に提案がパタッと出なくなったんです。聞けば、「書いても上司に捨てられる」という。「『若い人で会社を作っていこう』なんて、齋藤さんがいったのは、全部嘘じゃないですか」と。「そんなことないよ」と、提案を拾ってきては本社の部長会や取締役会に出したけれども、その場では社長や副社長の手前、「あれ、見逃していたかな」などといって部長たちも持って帰るフリはするけれど、実行されるのはその10分の1程度です。

    そんなことが続いて、新入社員は1年以内に全員辞めていきました。4年目に採用した人も、みんな1年以内に辞めました。部長や課長には外部の管理職研修も受けてもらいましたが、研修から帰ってきたそのときは「私たちが間違っていたよ」などというんですが、3日目には元に戻っているんですね。

    これはもう、ダメだと。私自身、何をやっているのかわからなくなってきたんですね。そして、この人たちが定年で会社を去るまでは社内改革はできないと、いったんあきらめて、コンピュータのシステムを整備したり、新しい開発のネタを考えたるといったことに主軸を移して、そういう仕事を自分でし始めたんです。

    不慮の事故により、会社存続の危機を迎える

    それが入社4年目のことでしたが、そんなある日、神奈川県の浄水場で当社の作業員が亡くなる事故が起りました。ろ材の洗浄工事中に、クレーンで吊り上げた重さ1.5トンの砂の袋の紐が切れて、下にいた作業員を直撃したんです。その方は、即死でした。知らせを聞いて浄水場に飛んで行ったら、警察も労働基準局も来て大変な騒ぎになっているのに、当時の工事部長や総務部長は「こんな事故は経験がないから、私の仕事ではない」という。そして「お前が対処しろ」といわれて、平社員の私がいきなりその担当になったんです。

    この規模の会社が社員の死亡事故を出したら、会社は潰れる。その程度は私も常識としてわかっていましたので、知っている弁護士の先生に電話をして「会社が潰れるのは仕方がないけれども、今、私にできることは何でしょうか」と聞いたところ、「ご家族やご遺族に、どれだけ誠意を持って接することができるか。それだけを考えろ」といわれました。

    たまたまその方は独身でご家族はいらっしゃらなかったのですが、ご兄弟姉妹が北海道から沖縄まで8人おられたので、まずはその方々のところを車で回って東京に集まっていただき、事故の報告から始まって、お葬式をしてお墓を建てて納骨まで、警察や労働基準局や浄水場への対応もしながら、アシスタントにつけた当社の新入社員2人と、不眠不休でできるだけのことはさせていただきました。

    そして最後の日に、「私たちにできることは終わりましたが、ほかに必要なことはございますか」と伺ったんですね。示談なんてことはさらさら思っていませんでしたので、これからどんな裁判が始まるのだろうと考えていたわけですが、「この1カ月間、君は非常によく頑張ってくれた。われわれとして君に望むことは、もうないんだよ」といっていただけて。しかし、「ただ1つ、いいたいことがある」と。「君がこの会社の跡取りだということはよくわかっているから、もう2度とこういう事故が起きない会社にしてほしい。それだけが望みだ」と。そして、「この場で示談書をつくれ」といわれて、8人全員が判を押してくださったんです。

    その一方で、そんな事故が起きたわけですから、工事部員はバタバタと辞めていきました。けれども、私が会社に戻ってきたときに、一緒に動いた社員の何人かが、私とならもう1度この会社を立て直せるかもしれないといってくれたんです。「だから、一緒にやらないか」と。これが今思えば、会社の中での初めての私のカリスマ性だったわけですね。

    でも、こんな事故を起こすような会社は存続すること自体が社会悪であり、潰してしまったほうがいいと思っていましたから、迷いました。ただ、そうでない会社にできるなら、もう1回やってみようと。そこでもう一度、軸足を社内改革に移していくことになったというわけです。

    あるプロジェクトの成功をきっかけに、社内が活性化

    ただ、そんな事故があったからといって、年輩の方々の意識が一気に変わるわけでもなく、なかなか新たな局面を迎える方向にはいかないんですね。そうした中で、会社はもう1つの課題、自社工場の売却問題というのを抱えていました。これが今思えば、社内を活性化する大きなきっかけになってくれたんです。

    福岡に1万2000坪の自社工場があったんですが、そこが「海の中道 海浜公園」という国営公園の計画地になっていまして、昭和20年代から買い上げの話が当時の建設省からきていたんです。それを当社だけが最後まで売らないと頑張っていたので、ついに強制収容だということで「1万2000坪を4億円で買い上げる」という通達がきた。でも、建設省とのやり取りなんて社内の誰もしたことがない。そこで、「この案件の担当になれ」と私が任命されたわけです。

    しかも、取締役会は「8億円で売ってこい」という。ともかく行ってみるしかないと、すぐに福岡に飛んで建設省の担当者と話したところ、1万2000坪のうち当社が砂を採掘して池になっているところが6000坪ぐらいあって、その部分の評価は普通の土地の1/4から1/5になることがわかったんですね。そこでやっと、ああ、そういうことかと。それでうちの取締役たちは「8億円」といったのかと、事情が飲み込めたわけです。

    それなら、話は簡単です。「砂は売るほどありますから、明日にでも池を埋め戻します。だから1万2000坪として評価してください」とお願いしたわけですよ。そうしたら、建設省の担当者は、「それは困る」というんですね。その池には鴨が生息していまして、そのまま「カモ池」として公園の名物にするんだという。「それを埋めてしまったら、鴨はどうなるのか」と。それはないですよね(笑)。

    「池としての使い道があるなら、ちゃんと評価をしてほしい」と主張しまして、しまいには「もうこうなったら池の鴨をとっ捕まえて、工場の前に鴨料理の店を開きますよ」なんてことまでいって(笑)。「『10億円でも20億円でも、とにかく高く売ってこい』といわれてるんです」と交渉を続けていたら、その担当者がまたいい人で「それなら、工場の撤去費用や新工場の建設費用の見積もりを持ってきなさい」とアドバイスしてくれるんですね。

    いわれるままに資料を提出するうちに4億円が6億円になり、最終的には11億7000万円で話をつけました。その間、取締役会には8億からは1円も上がったとはいわずにおいて、「11億7000万円になりました」と報告すると同時に、「ついては差額の3億7000万円で、やらせていただきたいことがあります」と、ある企画書を提出したんです。

    茨城県の高萩に祖父が建てた工場があるんですが、東洋一のろ過砂の生産工場なのに、昭和45年から何の整備もされていなくてボロボロだったんですね。それをリニューアルして、夢のようなオートメーションの工場にしたいという企画書をつくって、取締役会に提出したわけです。そうしたらみんな、8億円しか想定していませんでしたから、「それはいいことだ」とポンと許可が下りたんです。

    ────8億円に上積みできた分で高萩工場をリニューアルするというのは、福岡工場の売却交渉の段階から考えておられたのですか。

    最初は考えていませんでした。でも8億円が9億円になり10億円になるうちに、「この差額を何かに使おう」と思い始めたんです。高萩工場をきれいにしたいというのは以前から考えていたことでしたので、ならばその費用をこの九州であげられるかなというのが、私の目標になったわけです。

    高萩工場の社員は年輩者ばかりでしたが、工場がきれいになることをすごく喜んでくれました。そこで、「一緒にプロジェクトを立ち上げましょう」と呼びかけてリニューアルの希望を聞いたところ、「古くなったショベルローダー(砂利の運搬機)を買い替えて、事務所にエアコンをつけて、工場の屋根の雨漏りが修理できればそれでいい」というんですね。それでも、全部で8000万円程度。まだ2億円以上残ります。なのに、「もう十分だ」と。「お前のおじいちゃんがつくった生産設備が一番なんだから、残りは役員会に返して来い。そうすれば、無駄使いしない立派な跡取りができたとほめられるぞ」というんです。

    でも、私が思い描いていたのは「夢のような工場」です。原材料を放り込んだらあとは全て機械がピピッと自動的に処理して製品がパパッとできる、そういう工場がイメージだったわけです。方や、みんなは祖父の設備が一番だといって譲らない。そこで私も、「プロジェクトは解散します」といって東京に戻ってきちゃったんです。

    そのときは、これは私1人でやるしかないかなと思ったのですが、さすがに工場を1人でつくるのは無理です。誰かいないかなと社内を見回したら、新人と入社2年目の若手がちょうど10人残っていた。その10人を集めて、「夢のような工場」といわれて何をイメージするかと聞いたら「材料を入れれば、機械がパパパッとふるい分けて、製品がダダダダーと10種類くらい自動的に出てきて......」という。そのイメージが、私とぴったり一緒だったわけです。ああ、こいつらだ、と(笑)。

    早速、翌日にその10人でプロジェクトを新たに組んだのですが、そうしたら役員たちが怒りだしましてね。「砂もつくったことがないようなやつらに、3億円を使わせるわけがないだろう」と、今度はプロジェクトを解散させられそうになったのですが、そのときに最初で最後、祖母が「役員会で一度許可したことだから、やらせなさい」と援護してくれたんです。

    そこで10人の若い社員と一緒に「さあ、工場をつくろうぜ」ということになるわけですが、みんな砂なんかつくったことがないから、ふるいの角度や回転数がなぜそうなっているのかといったことが、まったくわからないんですね。工場の社員に聞いても、「そんなものは、20年経ってから聞きに来い」と、誰も教えてくれないわけです。

    ────しかし、工場をよくするためのプロジェクトですよね。

    みんなにとっては祖父の機械が一番ですから、リニューアルして工場がよくなるなんて誰も思っていないわけです。ですから、手を変え品を変え、です(笑)。「○○さんのつくった砂は、どうしてこんなにきれいなんでしょうね。これだからうちの会社は、お客さまから信頼があるんですよね」というと、「そうだろう。これは、この角度からふるってるからなんだよ」と話してくれたりね(笑)。

    酒を飲みに行っても、とにかく褒めて褒めて、そうすると少しずつ教えてくれるんですよ。それをみんなでメモして、機械メーカーに伝えて設備を設計してもらうといったことをしながらつくっていったわけです。

    平成5年にプロジェクトを立ち上げて、新工場が完成したのは平成7年。生産量は2倍になり、生産コストは30%下がって、生産部員は35名いたのが10名でできるようになりました。プロジェクトが成功したことで、強い思いやバイタリティさえあれば、経験や知識がなくてもできるんだと、若い社員に自信がつきました。最初は冷ややかだった工場の社員たちも、「こいつら、すごいものをつくったな」と思ってくれたと同時に、「自分たちのノウハウが、21世紀の形としてできあがった」と喜んでくれた。新工場には、みんなの経験や知識がきっちり反映されています。それはやはり、ものすごくうれしいことだったのだと思うんですね。

    この成功体験を通して、若手と年輩の社員たちとの世代間のギャップが消えて、1つの目標に向かう一体感が初めて芽生えました。これを機に、うちの会社はいろんな制度を導入するようになりましたし、数多くの特許を取って新しい製品ラインナップも揃うようになった。このプロジェクトが、その後に続くすべてのスタート地点になったんです。

    心から願い続けたことは、必ず叶う

    ────プロジェクト成功に至るまでの、ご入社されてからの7年もの間、さまざまな難題を乗り越えてこられた社長の原動力は、どこにあったのでしょうか。

    私は、子どものころから追い込まれないと動かないところがあるんですが、追い込まれると強いんですね(笑)。物事から逃げないといいますか。この会社にしても、私に継がせるのが祖父の夢でしたが、継いだ私が会社を潰してしまったのでは、夢の実現になりません。少なくとも祖父の時代以上の会社につくり上げることが私の使命で、それが一つの大きな目標としてある。やるべきことが明確なら、その過程で問題が起きてもそれは解決すればいいわけです。そういうところは、意外と強いんですね。

    もう1つ、何か問題が起きたり何かに困ったときには、私を助けてくれる人が必ず現れるというのが、私の一番の幸運なところなんです。私の人生はすべてにおいて、周りの人からの恩恵によって成り立っているんですよ。

    ────幸運を呼び寄せる秘けつは何でしょうか。

    心からそのことを願っているかどうか、だと思います。私は、父から「願ったことは必ず叶えることができるが、そのためには強く思い続けなくてはならない」と教えられたんです。本当にそうだと思いますね。24時間、潜在意識の中でも考えて無意識の行動にも表れるくらいに思い続けているかどうか、ということなんだと思います。

    ────幸運をあてにせず、何においても社長ご自身がまず行動を起こしておられることも大きいように思います。

    そうですね。ただじっと座っていてもダメで、アンテナを張り巡らして、アンテナの向きを変えたり場所を変えたりしながら、誰かひっかかってこないかなと動く。それは大事だと思いますね。

    ────幸運に恵まれているとはいえ、うまくいったことが10あるとすれば、うまくいかなかったことも同じくらいあったのではないですか。

    ありますね。ただ、そういうことはどんどん忘れていくんですよ(笑)。

    高萩工場のリニューアルプロジェクトの成功により、会社を見事に活性化させた齋藤社長は、新制度の導入や新製品の開発など、会社の未来をつくるための一手を次々と打ち出します。そこには、明確な理念にもとづく経営者としての揺らがない軸がありました。後編では齋藤社長の組織観、人財観を伺います。

*続きは後編でどうぞ。
  祖父の会社を「再生」させた、3代目社長の経営改革(後編)

株式会社損保ジャパン・システムソリューション
前代表取締役社長 井戸 潔さん

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    (現損保ジャパンひまわり生命保険株式会社
    取締役 常務執行役員)

    社員の生きがい、働きがいを高める経営(後編)

     

    ダイバーシティへの取り組み、社員の成長機会の創出、労働環境の改善......、今、「非金銭的報酬」が注目されています。その背景には、行きすぎた成果主義を是正する動きがあることもさることながら、働く側の就労観の変化も見逃せません。2009年春の大卒者を対象にしたある意識調査では、入社した会社で「定年まで働きたい」と答えた新卒者が全体の41%に上りました。長期的な視点で企業が選ばれる今の時代、目先の報酬やインセンティブだけでは、もはや優秀な人財をつなぎとめることはできないのです。では、どうすれば社員の働きがいを高めることができるのか。2002年の就任以来、「社員に成長の機会を提供することが経営者の役割」という姿勢を貫く、株式会社損保ジャパン・システムソリューション代表取締役、井戸 潔さんに伺ったインタビューの後編をご紹介します。

  • 株式会社損保ジャパン・システムソリューション http://www.sompo-japan-sys.co.jp/

    1984年4月に、安田システム開発株式会社として設立。1989年、安田火災システム開発株式会社に、2002年、株式会社損保ジャパン・システムソリューションに社名変更。2005年に損害保険ジャパン社の情報システム部と統合し、現在の体制となる。国内損保事業におけるリテールビジネスモデルの革新や、国内生保・確定拠出年金・アセットマネジメント・ヘルスケア事業への注力、海外事業の積極展開などを成長戦略に掲げる損保ジャパン社を情報戦略の面から支える。

    KIYOSHI IDO

    1955年生まれ。78年に安田火災海上保険株式会社(現 株式会社損害保険ジャパン)入社。2000年に社長室 IT戦略室長、02年に情報システム部長を経て、同年6月に安田火災システム開発株式会社(現 株式会社損保ジャパン・システムソリューション)代表取締役社長に就任。07年に株式会社損害保険ジャパン 執行役員 株式会社損保ジャパン・システムソリューション 代表取締役社長。

  • 実践の場を伴わない研修に意味はない

    ────社員の方々に刺激を与える仕事の機会を創出される一方で、教育・研修体系もかなり充実させていらっしゃいますね。

    体系的に描いたフレームワークの中で人を育てていると思われるのは大変ありがたいのですが、必要に応じて整備した結果、今のような形になりました。むしろ重視しているのは、研修で知ったことを実践する場を与えることです。知識は「使ってなんぼ」のものですから。

    ────研修と実践の場をセットで考える必要があるということでしょうか。

    そうです。実践の場を与えないなら、研修を受けさせる意味はありません。「少し不満が多いから研修でもやってみよう」という程度のことなら、やめたほうがいい。無駄ですし、研修を受ける本人が可哀想です。

    「研修を受けた社員は配置転換させろ」といったこともあります。現場からするととんでもないことだろうとは思いますが(笑)、その職場では得られない何かがあるから、本人は停滞しているわけですよ。それを、研修を受けることによってポジションを高めていこう、新しいノウハウを身につけようと考えるのであれば、別の場所を見つけてあげることも必要です。そうすることによって、研修で得た知識が活かせるわけです。すべては、実践なのです。

    ────研修でできることには限りがあるのですね。

    そうです。といっても、研修を否定するつもりはありません。当社も教育研修は整備していますし、外部の研修会社を活用することもあります。しかしその場合も、研修会社のノウハウの何を活用するのか、どういう場面でそれを活かすのかということを判断して導入する必要がある。これは我々、導入する会社側の仕事です。

    研修を導入すればそれで育成プログラムができあがるといったことはありえないわけで、SJSという会社のサイズやカルチャーに合わせて、何を使って何を使わないといった取捨選択をしていくことによって、より良い物ができていくのではないかと思います。

    ────研修を行っても効果があがらないという企業もあります。

    それは会社の責任です。研修だけでなく、多面的にいろいろな刺激や機会を社員に提供しているかどうかということだと思います。

    新人は、人財育成力のあるラインにのみ配属する

    ────過去のインタビューでは、「社員の方々には『顔が見える社員』になってほしい」とおっしゃっておられました。「顔が見える社員」とは、どのような社員なのでしょうか。

    標準的な人間になってほしくないということです。社員一人ひとりがそれぞれの強みを持ってほしい。「この人はこれが専門」「この人に聞けば大丈夫だ」という人財になってほしいということです。よく、チームワークが大切だといわれますが、それが慣れ合いになっていては困るわけで、それぞれの強みを持った人が集まって初めて、価値のあるシステム作りができるのです。

    ────強みとは、例えばどのようなことですか。

    例えば「彼はネットワークが得意だ」とか、「商品の構造をよく理解している」とか、そういうことであっていいのです。一人ひとりの輪郭が誰から見てもはっきり見えるような、そういう人財であってほしいということなのです。

    採用にあたってもこの点はすごく意識していまして、「こいつは面白そうだな」と思えば採用します。面接でひと言も話さなかった人を採用したこともあります(笑)。その彼も、今はしっかりと仕事をしてくれていますよ。そうかと思えば、「システムのシの字も知らないけれども、英語だけは得意です」といって入ってくる人もいます。とにかく、標準的でどこから見ても金太郎飴みたいな人財にだけは、なってほしくないです。

    ────最近では社員の多様性を尊重する企業も増えていますが、御社の採用はまさにダイバーシティを大切にされているのですね。

    情報システムこそ、多様性を持った人財が携わらないといけないと考えています。業務を標準化することが情報システムの効用ですが、それをつくり上げるのは多様な特性を持った人たちでなければならない。標準的な人ばかりが集まっても、面白みのないシステムづくりしかできません。

    ────採用時には個性的だった人財が、入社後に平均的な社員になってしまうということはありませんか。

    それは、ありえます。一番、頭の痛いところです。ですから、新人の配属については「育成するマインドを持たないラインには、絶対に配属するな」ということをうるさくいっています。こういう時代ですから、「人が足りない」という部署はたくさんあります。でも、育てるつもりがないなら、新人は配属しない。「人は足りている」といわれても、育成力があると見ればその部署に配属します。

    ────新人が配属されない部署は困るのではないですか。

    それはもう、努力してもらうしかないです。やりようはあります。例えば、パートナー会社の方に支援していただくといった代替手段などです。業務遂行ということだけを考えれば、この1年、2年をどう乗り切るかという話でしかありません。

    しかし、新人にとっては一生の問題です。社会人としての最初の出発ほど大切なものはなく、一人ひとりの人生がかかっているわけです。であれば、しっかりと育成してくれる上司や先輩がいるところ、あるいはライン長や部長の意識が高いところに配属してあげなくてはいけない。数合わせをするように「1人減ったから1人入れてください」というような扱いは、新人に対して失礼です。会社の5年後、10年後を考えても、そうやって育った人たちが会社を背負ってくれることがプラスになります。

    ────新人が配属されないラインは、人財育成を学ぶ機会がないということでもあるのでしょうか。

    機会を与えることは必要です。ですから、「うちに新人を配属してほしい」と要望してきた部署には、育成のプランや考え方を確認するようにしています。それに対して、これなら新人を預けても大丈夫だと思えば預けますし、そうでなければ配属はしません。もしくは、本当にそのラインに新人が必要なのであれば、人財育成力のある中堅社員を前もってそこに異動させてから新人を配属します。いくら新人にやる気があっても、組織の空気が停滞していたら人なんか育ちっこないわけですから。

    ────新人を配属する前に、人が育つ土壌をつくるということですね。

    そう、それが一番大切なことです。一朝一夕でできるものではありませんが、これはもう続けるしかないです。継続するしかないと思います。

    「会社と会社」の関係から、「人と人」の関係へ

    ────ご就任からの6年間で、会社はどのように変わりましたか。

    「この人はプロパー社員」「この人は出向者」といった意識がなくなってきたことが、劇的な変化だと思います。本音ベースでいえば、やはりどうしても本体の社員はプロパーの社員を「子会社の人」だと思う傾向があるものです。ビジネスノウハウやビジネススキルといったものは持っていない、いわゆる「技術屋さん」として見てしまう。

    それが、「こういうやり方をすると、こういう問題があります」とプロパーの社員にいわれたとたんに、「この人は何なの」と思い始めるわけです。そして、自分たちが思う以上のスピードで開発が進む、高い品質のものができあがってくる、あるいは想定以上にコストを削減できたといった成果が積み重なるにつれて、信頼もどんどんと積み重なっていく。その結果、プロパーや出向者という意識がなくなり、「人対人」で仕事ができるようになるわけです。

    損保ジャパンと損保ジャパン・システムソリューションという、「会社対会社」で仕事をしている時代から、人が人を信頼して仕事をするようになるというのは、これは劇的な変化です。

    ────子会社から機能会社へという大きなステージ転換も、「人対人」の信頼関係を一つひとつ重ねていくことの上に成り立っているのですね。

    そうです。そのためには、一人ひとりの社員が「技術力」「仕事力」「人間力」の3つの力を身につけることが必要です。子会社の時代は「技術力」があればよかったわけですが、今は我々も損保ジャパンのビジネスをつくり上げる一員。社員には「君たちはシステムエンジニアではなく、ビジネスエンジニアなんだよ」というのですが、システムの面からアプローチしてソリューションを見出すことが役割だとすると、おのずと持つべきスキルは見えてくるわけです。

    ただ、理想の組織になるにはまだ時間はかかると思っています。長い目で軸をブラさずに、続けていくしかありません。そういった中で先日、2年目職員がある提案をしてきましてね。当社にはコーチング制度という、先輩が後輩をマンツーマンで指導する制度があるのですが、その制度に見直したほうがいい点があるというんです。そういう自発的な提案をもらうと、うれしいですね。

    ────そういった現場からの提案は、どのような経路で社長に届くのですか。

    特別な制度やルールはなく、その時々でポーンと出てきます。今回は、人財開発部長宛にメールで提出されたものを、「ぜひ読んでください」と部長が私に転送してくれたのです。こういう提案が出てくるということは、技術だけでない目線でものごとを見られるようになってきているということですし、そういった提案には真摯に答えたいと思います。社員が変わろうとしているきざしは、敏感に感じ取って、適切に反応しなければなりませんから。

    社員の成果を外に向けてアピールする

    ────子会社から機能会社へというステージ転換を図る企業に、アドバイスを何かお願いいたします。

    大それたことはいえませんが、まずは、向かうべき方向をビジョンとして明確に社員に伝えることが必要です。そして、仕事で成果を収めたなら、本体の人たちを呼んできて「このようにできました」と、実績を共有することが大切です。自分たちだけで「やった、やった」というのではなく、ユーザーに成果をアピールすることが必要です。当社でも、そういったことは積極的に行ってきました。

    ────それがみなさんの成功体験にもなりますね。

    そうです。自分たちだけでやる打ち上げもするなとはいいませんが、あまり意味がないと思うんです。自分たちでやったことを、周りから評価してもらう。それが、一番大切なことです。本体のユーザー部のトップの人たちから「ご苦労さま」といわれれば、私が「ご苦労さま」というよりもはるかに効果があるわけですよ。

    そこはかなり意識して、「時間があるなら来てよ」と、本体の人間に開発拠点までよく来てもらいました。そういったことが、現場の人たちの励みになると思っています。また、そのような実績が積み上がっていくと、SJSという会社に対する本体からの信頼感も高まってくるわけです。

    ────信頼関係という土台があって初めて、会社対会社の関係から人対人の関係に移行できるのですね。

    そういうことです。本体のユーザー部の人が、何か困ったことがあるときは「SJSのAさんに連絡しよう」という関係にさえなれば、後は放っておいても大丈夫なのです。そこに至るまでの信頼関係を築く機会を、会社として意識的に仕掛けていくということです。

    ────ありがとうございました。

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