2008年7月アーカイブ ..

青梅慶友病院
理事長 大塚 宣夫さん

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    「理想の病院作り」に学ぶ、理念型組織のあり方(後編)

     

    企業経営における理念とは、企業が存在する理由そのもの。短期的な業績ばかりが重視される風潮が広がり、利益至上主義による企業の不祥事が後を絶たない今の時代、企業理念のあり方が、改めて見直されています。どうずれば理念は組織に浸透するのか。どうすれば理念を風化させず、創業の志を保ち続けられるのか。「親を安心して預けられる病院」という理念を掲げ、老人病院にサービス業の発想を持ち込んだ医療界の異端児、青梅慶友病院・理事長、大塚宣夫さんに伺ったインタビューの後編をご紹介します。

  • 青梅慶友病院http://www.keiyu-hp.or.jp/oume/index.php

    1980年2月開院。いち精神科医であった大塚宣夫氏が、「親を安心して預けられる病院」という理念を掲げ、土地探しから奔走して病床数147床で起業。その後3度の増築を経て、病床数736床の大病院に。「医療はサービス業である」という強い信念のもと、職員の360度評価、入院患者の「寝たきり起こし」など、業界の常識を覆す施策を次々と導入する。2005年には「よみうりランド慶友病院」を遊園地「よみうりランド」の敷地内に開院。遊園地と老人病院という異色の組み合わせが、業界内外の話題を呼んだ。

    NOBUO OTSUKA

    1942年生まれ。医学博士。1966年に慶應義塾大学医学部卒業。67年に同大学医学部精神神経科学教室入室。井之頭病院勤務、フランス政府給費留学生としての2年間のフランス留学を経て、80年に青梅慶友病院を開院し院長に就任。88年には同病院を医療法人社団慶成会に改組、理事長に就任。2005年によみうりランド慶友病院を開院。著書に「老後・昨日、今日、明日」(主婦の友社刊)、監修書に「百歳回想法(ソトコトclassics)」(木楽舎刊)。

  • 多数の目は「神の目」。開院3年目から360度評価を導入

    ────組織運営について伺って参りましたが、もう1つ、開院3年目から職員の「360度評価」を実施されています。これはどのような経緯で導入されたのでしょうか。

    そもそもは、開院の翌年に「この病院でとても良くやる職員は誰だろう」と、職員みんなで投票した事が始まりでした。そうすると、こちらが良いと思う職員と皆が良いと評価する人とはだいたい一致しました。それを2回ほどやって、3回目に「では、この病院で一番問題だと思う人は誰か」と、それも投票してみた。

    するとまた、こちらの感覚とよく合う結果が出たんですね。これも2回ぐらいやって、その次からは「中間もあるはずだ」と考えて、「とても良い」「良い」「普通」「やや悪い」「悪い」「わからない」という、今のスタイルになりました。全職員の名前を書いた紙を配り、無記名で投票させて集計すると、それぞれの人の「良い」が何票かというのが出ますね。その数値でランキングし、上から5%はAランク、15%がBランク、60%がCランクといった具合に、A、B、C、D、Eの5段階で評価するんです。

    ────なぜ、みなさんで投票しようと思われたのですか。

    私が良いと思っている人とみんなが良いと思っている人が、本当に一致するかしらと思った事からでしたね。

    ────ご自身の評価基準を確かめようということですか。

    そうです。かれこれ30年近く続けていますが、これほど信頼できる方法はないと思います。1人の人の評価というのは、何度やっても本当に似たような結果になる。評価する側には、それなりに人の入れ替わりがあるんですよ。評価基準も「『良い』や『悪い』の基準は何か」とよく聞かれますが、「自分の思う通りでかまわない」と言ってあるんです。「仕事ができる」といった事だけでなく、「今朝、私の足を踏んだのはけしからん」という事でもいい(笑)。それでも、1人の人の評価は似たようなところに落ち着く。やはり多数の目はまさに「神の目」なんですね。

    ────評価結果は待遇にも反映されるのですか。

    はい。当初から評価結果はボーナスや給与に反映させました。つまりAの人にはプラス幅を大きく、Eの人には大幅に減額したのです。ところがまもなく高い評価を得た人が周りから冷たい目で見られている事に気がつきましてね。つまり、「なぜあの人がAで私がAでないのか」と、残りの人たちが白けるんですね。Aランクに位置づけられる人なんて、全体の5%ぐらいしかいませんから。

    そこでEの人には本人に面接のうえしっかり減額し、残りの人には何も伝えないという具合に、悪い人をあぶり出す手段として使おうという事にしたんです。「100-1」のマイナス1を排除する仕組みですね(※)。

    ※編集部注:「病院はサービス業である」とする大塚氏は、「サービスと満足には恐るべき関係がある」と言う。「サービスを積みかさねることによって、満足の度合は高まっていきます。が、一つでも不備があると、それまでのすべてが消えてしまう。つまり、100-1=0なのです。一人ひとりの責任はきわめて重大です。あなたの対応は、いつも病院全体を代表しているのですから」(「輝きを呼び戻せ(青梅慶友病院発行)」より)

    評価が高い人には、金銭よりも病院外の研修に優先して参加させる、委員会のメンバーに選ぶといった形で対応して、問題のある人には金銭的にガバッとやろうということにしたんです。その結果、「私はボーナスをこんなに減らされた」とこぼす人がいるとしますね。すると周りは、「ああいう行動をすると、マイナス評価を受ける」と分かる。下位5%をそのように処遇すると、残りの95%がピリッと締まるわけです。

    ────評価結果はご本人にもフィードバックされるのですか。

    評価が悪かった人にはしっかりと言いますが、残りの人には直接的にはしないようにしています。60%の人がCランクになりますが、「C」と言われて満足する人なんていないわけです。みんな、「自分は平均より良くやっている」と思っていますから。ですから、「C評価なるものを伝える事は、まかりならん」と。評価を伝えるなら、『あなたは平均より良くやっている』という程度の表現で十分なんです。

    ただ、最近はもう少し積極的にフィードバックしようという話も出ています。その時には、どこが至らないのかを本人から質問されることがあるでしょうが、人事担当者には「その人に対してこうなって欲しいと思う事を率直に伝えてかまわない」と言ってあります。「あなたは挨拶が悪いのではないか」とかね。真の目的は下位の人を排除する事ですから、それ以外の活用はその程度なものですね。

    ────例えば特定の方がいじめに合うなどで、相互評価の結果がゆがむといった恐れはないでしょうか。

    それは我々も常に気にしていまして、突然これまでと評価が変わった時は、「何かあったのか」と上司や師長から情報を取るなどして、とても注意して扱います。そういう意味では、多数の目は「神の目」であるけれども、評価結果はあくまでも参考資料として見るという意識も必要ですね。中には、周囲からの評価はあまり高くないけれども「特異な能力があって、組織運営にはとても貴重」という人は、病院側の裁量として評価を上げる事もあります。

    ────師長さんや上司の方が、みな様の働きぶりをよく見ていらっしゃるからできることですね。

    そうです。

    ────360度評価を導入されたことで、病院内のサービスのレベルは上がりましたか。

    明らかによくなりました。下位の5%、実際には2%程度ですが、その人たちを排除する仕組みがあれば、全体のレベルは間違いなく上がります。排除する仕組みがないと、悪貨が良貨を駆逐する。「あんな人と一緒に働くのは嫌だ」と、良い職員が辞めていくんです。「病院が期待する職員像に反する人はここにはいられない」という仕組みをしっかり持つと、一生懸命やっている人が本当に安心して働くことができるんですね。

    相互評価のもう一つの仕組みとして、院内には「理事長への直通便」という投書箱が設けられている。患者やその家族だけでなく職員も投書可能だ。患者や家族からの投書は、実名入りで寄せられたものは直接回答し、無記名のものは病院からの返事を添えて投書箱の横に掲示。職員からの投書は院内で全職員に回覧する。常に周囲に見られているという緊張感が、病院のサービスレベルを支えている。

    面白そうなら、すぐにやる。ダメだったら、すぐに止める

    ────病棟独立運営制や委員会制度といった組織運営(前編参照)のアイデアは、何からヒントを得られるのですか。

    主には日経新聞や経済誌ですね。私は、医療界の事はあまり気にならないんです。一般産業界の方がずっと面白い。発想も斬新ですしね。例えば、自動車メーカーのボルボが行った生産ラインの改善を参考に、職員の配置を見直したこともありました。

    以前は処置係やオムツ交換係といった形で機能別に配置していたのですが、ある時職員と話していたら「昨日は処置係だったので、朝から20人以上に浣腸しました」と言うんですよ。排便のコントロールが必要な患者様への浣腸は、処置係の仕事の一つなんですが、「家に帰ってもその場面がちらついて、よく眠れませんでした」と言う。

    他の担当も同じです。オムツ交換の人は、朝から晩までずっとオムツ交換。そうやっていると、患者様を人として見る意識がなくなってくるんですね。しかもオムツを交換した後に床ずれ処置の担当者が来て、またオムツを外して処置をするという非効率な事も起きる。これって、やっぱりおかしいんですよ。

    それなら機能別の職員の配置はやめて、チームで何人かの患者様を受け持つ方がいいと考えたんですね。例えば2人1チームで6人の患者様を受け持ち、その日はその6人の方にかかるすべてを2人でやる。「今日は○○様をお世話させていただいた」という方が、患者様も職員も双方の満足度が上がるわけです。

    そんな事を考えていた時にたまたま新聞を見ていたら、ボルボが流れ作業を止めて、チームで1台の車を作るようにしたという記事が載っていたんです。モチベーションが非常に上がって生産性も向上したとあって、「これだ、これだ。これをうちでもやろう」と(笑)。

    ────中には、うまくいかずに中止した施策もあるのでしょうか。

    それもありますね。私は面白いと思ったら、深く考えずにともかくやってみるんです。そしてしばらくは、頻繁に現場をジーっと見て歩きます。現場の人は何と言っているか、どんな風に動いているか、1週間前と今とでは雰囲気がどう変わったかというのを、かなり丹念に見て歩くんです。

    そこでみんなが乗ってきていないなと感じた事をしつこくやっても、絶対にうまくいきません。無理やりやらせても、1週間や2週間はもちますよ。だけども、3週間もするとやらされ感が強くなって、先が見えなくなるんです。ですから、長くても1カ月。1カ月やってダメだなと思ったら、パッと止めちゃう。

    私が突然「やれ」と言った事になぜ従ってくれるかといえば、うまくいかない時はすぐに撤回すると思っているから。これは、経営者に対する信頼感をつなぐ意味ではとても大事なことなんです。といっても、打ち出した施策の打率は結構高いですよ。少なくとも5、6割はうまく行っていると思います。

    ────打率が高い秘けつは何でしょうか。

    現場をよく見て、問題点を発見したら朝から晩までそのことを考え続ける。これではないでしょうか。考え続けていると、突然ある時ひらめくんです。

    例えば最近では、「ナースコール半減化運動」なんていうのをやりました。ナースコールが絶えない病棟があって、職員は呼ばれるたびに飛んで行く。そして患者様に何か言われると、物を取りにまた看護室に戻る。見ていると、そうやってバタバタ、バタバタしているんです。職員はナースコールに忙殺される一方で、患者様から見れば「呼ばないと誰も来てくれない」という現象も起きていました。

    そこで、この無駄な動きをなくすために、ナースコールの回数を指標に各病棟を徹底的に攻めてみようと思ったんです。その結果、みんなどうするようになったかと言うと、ナースコールを減らすために患者様の側をできるだけ頻繁に訪れるようになったんです。すると患者様は、「呼ばなくても、待っていれば来てくれる」と思うようになる。それだけでボタンを押さなくなる人が結構いたんですね。

    また、統計を取ってみると、ナースコールの80%は極めて少数の人によるものだったことが分かりました。であればその患者様を一時期集中的にケアするとか、そういった事を現場が次々と編み出すようになった。そして2週間もしないうちに、日中は1日に200回以上あったナースコールが、40回程度になったんです。

    ナースコールの回数をチェックされて嫌だなと思っていても、やってみると仕事がすごく楽になる。そのことが、経営者に対する信頼につながるんです。そのためには、考え方を師長と共有することも大事です。例えば、「どの患者様が何回鳴らしたかもチェックするように」というように。「パレートの法則(※)」といった知識がこちらにはありますから、そういう相談にはいろいろ乗るわけです。

    ※編集部注:「社会全体の所得の大部分は一部の高額所得者が生み出している」といった分布に関する経験則。イタリアの経済学者パレートが発見した。

    ────現場の皆様が独自に工夫されるという事も素晴らしいですね。

    「ともかくやってみよう」という気持ちだけは、持たせないとダメですね。やっても仕方がない事を延々とやらされたのではやる気にもならないでしょうが、うまくいかなければまたすぐ撤回するんだろうと思っていますからね(笑)。それまでの間はともかく目一杯やってみようと思ってくれるんですね。

    ────目標管理がうまくいかず、現場が疲れ切っている企業も多くあります。

    現場が疲れ切るのは、やはり何かがおかしいんですよ。現場をよく見ていないか、現場からの情報が不足しているのか。信頼感さえあれば、突拍子もないことを言い出してもついてきてくれます。

    例えば、「寝たきり起こし(※)」なんていう事もやりました。私がヨーロッパ視察から帰ってきて、突然「車イスを200台買おう」「患者様は全員、昼間は起こそう」なんて言うわけです。みんな、びっくり仰天ですよ(笑)。現場からは「こういう問題が起きたらどうしましょう」といった話がたくさん出るけれども、「責任はすべて私が負うから、とにかく起こそう」と。

    そうして1カ月もすると患者様がみんな元気になってきて、たちまち効果が出てくるわけです。成果が実感できるから、疲れ切るということもない。やはりこれは継続しなくては、という話になるんですね。

    ※編集部注:1988年にヨーロッパ6カ国の老人病院や介護施設を視察した大塚氏は、寝たきり老人がほとんどいない事に驚く。寝る部屋と日中を過ごす部屋は区別され、日中は寝間着から日中着に着替えて、お化粧をしている女性すらいる。この現状を目の当たりにし、大塚氏は寝たきりの患者をベッドから離す試みに挑戦することを決意する。

    またある時は、「昼間は、患者様に日中着に着替えていただこう(※)」と言った事もあります。その洋服も病院が提供するわけですから、手間だけでなくお金もかかる。だけど1カ月も我慢してやっていたら、患者様が生き生きとして雰囲気がガラっと違ってきましてね。苦労してでもやってよかったと、みんなそれはうれしいと思いますよ。そうこうしているうちに業務として定着すれば、最初の混乱もなくなってきます。

    ※編集部注:青梅慶友病院では1993年から、病院負担で患者に日中着を提供している。

    ────成果がすぐには出ない物事の場合、我慢してやり続けるべきか撤回すべきかは、どう見極めるのですか。

    見極めるポイントはトレンドです。1週間前、あるいは3日前と今日とを比べて、みんなが何らかの違いを実感しているかどうか。少しずつ良い方に向かっている時は、みんなも乗ってくるんです。だから頻繁に病棟に行って、みんなの表情や動きから乗ってきているかどうかをチェックする。それができるのは誰かといえば、私しかいないんですね。

    ────1カ月や2カ月経たないと成果が出ない物事であっても、実は1週間、2週間で小さな変化が起きているのですね。

    そうです。その単位で、少しずつであっても良い方向に向かっているのかどうかを、現場を見て確かめるわけです。

    青梅慶友病院の入院患者の80%は女性。院内には美容室があり、週に何度か美容師が出張する。カットは無料、パーマ・カラーは有料だが街の美容室と同じサービスが受けられる(写真左)。廊下やロビーには、医療器具など病院を連想させるものは一切ない。ロビーにワインラックを設置している病棟もあり、医師の体調管理の下、希望者にはお酒を提供することもあるという(写真右の窓際)。

    人件費は最大の投資。給与は相場より2割高く設定

    ────先ほどの院内見学でも、職員の皆様のご対応が本当に素晴らしく、一丸となって理念を実践されていることを実感しました。採用もかなり厳選した選考を行われているのでしょうか。

    採用はとても大事で、我々の理念に心から賛同してくれる人かどうかは、関心を持って見ています。そういう人を採用するには、たくさんの人が応募してくれる環境を作らなくてはいけない。そのために給与は周辺より2割高くを目指しています。

    ────開業後、まだ負債を抱えておられたような時期から、給与は高く設定されていたそうですね。

    そうです。人件費を今の費用だと考えると抑えたくなるかもしれませんが、そうではなくて将来への最大の投資ですからね。

    ────採用は各病棟に任せておられるのですか。

    採用は人事が行っていますが、師長がその人を受け入れるかどうかは別で、「私はこの人はいりません」という拒否権があります(笑)。ただ、2005年に開業した「よみうりランド慶友病院」では、採用の段階で師長も面接することになっています。

    ────選考では何を重視されるのでしょうか。

    ふるまいの良さといいますか、当院の雰囲気に合わない人はお断りしています。迷いながら採用して、実はとても良い人だったなんていう確率は極めて少ない。良いと思って採用しても難ありだったという確率の方がはるかに高いんですから(笑)。だから、少しでも引っかかるところがあれば採用しません。5人の募集に対して20人ぐらい応募があったけれども、2人しか採用しなかったといった事は頻繁にありますよ。

    ────入社後の教育にも力を入れておられるのでしょうか。

    それも力を入れていますね。研修中にうちの理念に合わないと感じた人は、最初の3週間で本人にしっかり告知する場合もあります。うちは理念型の組織ですから、この人はとても馴染みそうにないと思ったら早めに知らせることが双方にとってよいと考えるからです。

    その分、本採用になった人はそれほど教育しなくてもちゃんと馴染むんですね。教育研修というのは簡単に言えば、「この組織で高く評価されるためには何が必要か」を教える事でしょう。そのために、うちには評価の仕組みがあるわけです。高く評価されるためには何をすべきかを自分で求めて教育を受けるような仕組みにしないと、一方的に研修を押しつけても効果はない。評価の仕組みさえちゃんとしていれば、人はそっちの方向に動くんです。

    ────組織に理念を浸透させる上で、経営者が果たすべき役割はどうご覧になりますか。

    経営者の最大の役割は理念を浸透させることであって、最大の仕事は職員と会話をすることです。自分の親ならどうしてほしいか、自分ならどうしてほしいかを、各自があらゆる場面で問うてみようと。それを言い続け、裏表なくやり続けるしかないと思いますね。

    すべてをわが事として考えられる組織こそが、最強である

    ────開業されてから今日までの中で、一番困難だった事を一つあげていただくと、どのような事があるのでしょうか。

    そうですね...、経営者としてなかなか楽にさせてもらえない事でしょうか(笑)。開業から、そろそろ30年目を迎えます。昔から「企業寿命30年説」が言われていますが、創業者の場合には特によく当てはまると思いますね。創業なんていうのはある意味では新興宗教みたいなものですから、トップに代わる人はいない。そういう組織なのだと思うんです。

    しかし30年も経つと、肉体的な意味においても創業者のパワーは徐々になくなります。それをどう克服するか。私もうまくすればあと2年ほどで引退することになっていまして、昨年の5月から私の長男が理事長見習いとして病院に入りましたが、私のようにはできない。私のやり方ではできないと言った方がいいでしょうか。彼は彼なりのやり方でやるより仕方がないんですね。

    ですから、事業継承は第二の創業。私のやり方を継続してくれと言うつもりはまったくありません。今までの物を全部ぶち壊しても、それはそれでいい。私は今まで30年間、この病院という「趣味道楽」を楽しんで、ここで辞めるというだけのことでね。「そこから先は、あなたの好き勝手」というぐらいに開き直らないと。

    ────そこでも開き直りが大切なのですね(笑)。

    そう。何でも開き直るんですよ(笑)。

    ────経営を「趣味道楽」と言われましたが、成し遂げられた物事の大きさはその域を超えているように思います。

    私が「趣味道楽」と言うのには、2つの意味があります。1つは、自分の時間、お金、体力のすべてをつぎ込むだけの価値がある物かどうかということ。私は暇さえあれば病院の事を考えていまして、家内に云わせると「三度の飯よりも好き」なんですね(笑)。それに、お金の損得を考えていたら「趣味道楽」なんてできません。「趣味道楽」は自分のお金をつぎ込んででもやる物なんですから。

    もう1つは「趣味道楽」と言った途端に、うちで働いている人たちは「私の趣味道楽につき合ってくださっている人」になるんです。ですから、私の中にある種の後ろめたさがずっとありましてね(笑)。私は自分のしたい事が全部できていいけれども、みんなが私に付き合うのはとても大変なんだろうなと。だから、この人たちにもできるだけいい思いをしてもらわないと困るという思いがあるんですね。

    「社会のために」なんていう考えでいると、「こんなに苦労しているのに、なぜこんなに報われないんだ」となりがちですが、私はそうは思わない。すべて自分の好きでやっている事ですから、苦労が報われなくても仕方ないですね。(笑)。

    ────先ほど事業継承のお話がありましたが、その他に今後の課題としてお考えのことはありますか。

    今はまだみんな、「自分は看る側、お客様は看られる側」。もっとお客様と一体化しないとダメですね。例えば、病院では朝食の時間が決まっているけれど、今日はゆっくり寝ていたいと思う人だっているはず。お客様を自分たちの都合に合わせようとするから、そうなるんですね。ことほど左様に、何事も「私看る側、あなた看られる側」となっているのを、もう一つ進んで、常に看られる側に立てるかどうかということなんです。

    ────それは非常に難しいことですね。

    難しいです。だけど「自分の親を安心して預けられる」という事からもう一つ進化して、「自分の身を預けられる病院にするためにはどうすればいいか」という、これがこの病院の改革なんですよ。私は親をみんな見送りましたから、今度は自分が入る時までには何としても、もっとぐうたらな生活ができる病院にしないとね(笑)。

    ────規則正しい生活が良いとは限らないのですね。

    そうです。ただ、うちでは入院された最初の6週間は徹底的に鍛えます。それでいろんな事ができるようになって、ずい分変わる人もいます。だけど6週間を過ぎて改善の見込みがない人に対しては、一切そういったものは止めます。成果が出るなら苦痛を与える事にも正当性はありますが、苦痛だけ与えて成果がないのは医療のプロとして最悪の行動。規則正しい生活を押し付けないというのも、同じ事なんですよ。

    預けるのが自分の親なら、ちゃんとした生活をしてもらいたいと思うのは当然で、実際、多くのご家族がそうおっしゃいます。でも「もっとこういう生活をされた方が快適なんですよ」とご家族を説得してでも、自分たちで対応できるようになれば、本当に強くなると思います。すべてを本当にわが事として考えられれば、それこそ最強なんですよ。

    ────ありがとうございました。

    病院に隣接する約1500坪の敷地には、遊歩道と遊歩公園を設置。四季折々の花や梅や栗などの果樹が植えられ、見舞いの家族が患者の車椅子を押して散歩する姿がそこここに見られる。施設の設計や職員のサービスの隅々に、大塚氏の次の言葉に象徴される理念が染みわたっている。「八十年、九十年におよぶ人生。よいとき、悪いとき、いろいろありました。しかし、終わりは何としてもよくあって欲しいもの。これでよかったのだと思ってもらいたいのです。人生、終わりよければ、すべてよし。そして、それは私達の対応如何にかかっているのです。」(「輝きを呼び戻せ(青梅慶友病院発行)」より)

青梅慶友病院
理事長 大塚 宣夫さん

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    「理想の病院作り」に学ぶ、理念型組織のあり方(前編)

     

    企業経営における理念とは、企業が存在する理由そのもの。短期的な業績ばかりが重視される風潮が広がり、利益至上主義による企業の不祥事が後を絶たない今の時代、企業理念のあり方が、改めて見直されています。どうずれば理念は組織に浸透するのか。どうすれば理念を風化させず、創業の志を保ち続けられるのか。「親を安心して預けられる病院」という理念を掲げ、老人病院にサービス業の発想を持ち込んだ医療界の異端児、青梅慶友病院・理事長、大塚宣夫さんに伺ったインタビューを2回シリーズでご紹介します。

  • 青梅慶友病院http://www.keiyu-hp.or.jp/oume/index.php

    1980年2月開院。いち精神科医であった大塚宣夫氏が、「親を安心して預けられる病院」という理念を掲げ、土地探しから奔走して病床数147床で起業。その後3度の増築を経て、病床数736床の大病院に。「医療はサービス業である」という強い信念のもと、職員の360度評価、入院患者の「寝たきり起こし」など、業界の常識を覆す施策を次々と導入する。2005年には「よみうりランド慶友病院」を遊園地「よみうりランド」の敷地内に開院。遊園地と老人病院という異色の組み合わせが、業界内外の話題を呼んだ。

    NOBUO OTSUKA

    1942年生まれ。医学博士。1966年に慶應義塾大学医学部卒業。67年に同大学医学部精神神経科学教室入室。井之頭病院勤務、フランス政府給費留学生としての2年間のフランス留学を経て、80年に青梅慶友病院を開院し院長に就任。88年には同病院を医療法人社団慶成会に改組、理事長に就任。2005年によみうりランド慶友病院を開院。著書に「老後・昨日、今日、明日」(主婦の友社刊)、監修書に「百歳回想法(ソトコトclassics)」(木楽舎刊)。

  • 「こんなはずでは...」。アクシデントの連続を乗り越えた創業期

    ────病院の開設から28年目を迎えられました。今や業界の内外から注目される存在でいらっしゃいますが、どのようなステップを経て今日を築かれたのか、まずは開業当時のことからお伺いさせてください。

    自分の親を安心して預けられる病院を作りたい。ただその思いだけで起業したものですから、組織の運営などしたことがなく、一勤務医としての経験しかない中で病院を立ち上げました。思いのたけはありましたが、何をどうするという深い考えがあったわけではなく、まさに手探り。最初の5年間ぐらいは本当に「創業期」という感じでしたね。

    お陰様で資金繰りの苦労はありませんでしたが(※)、大変だったのは人集めです。当時はまだ老人病院のイメージが悪く、そんな所で働こうという人はよほどの変わり者か何かの事情で働く場所がなくて困っている人ばかり。こちらが経営の素人なら、スタッフは言ってみればはみ出し者の集まりだったわけです(笑)。

    ※編集部注:資金繰りは、大塚宣夫氏が開業準備に奔走する中で出会った、霞農業協同組合(現・西東京農農業協同組合)の組合長(当時)、野崎省吾氏が全面的に支援した。大塚氏の熱意に動かされた野崎氏は、自身の所有する約1000坪の土地を貸与し、運転資金借り入れのための連帯保証も引き受けたという。

    ────医療業界の中で、老人病院がどう見られていたかはご承知の上でお始めになったのですか。

    あまり深くは考えていませんでしたね。ですから、開業準備中に「そんなにしてまで金儲けがしたいか」と周囲に言われたときは、衝撃的でした(笑)。

    ────それは、ひどいですね。

    老人病院といえば、その程度の見られ方ですよ。行き場のないお年寄りをベッドに縛りつけて、検査漬け、点滴漬け、薬漬け。それで稼ぐといったイメージで、悪徳病院の代表のようなものでしたから。

    ────そういった中で、大塚先生が描かれた病院の理想像はどのようなものだったのでしょうか。

    具体的に「これ」という事があったわけではないんですね。良心的な医療を提供すれば、お年寄りは元気になるのではないかという程度の考えだったわけです。しかし現実には、医療行為をどれほど良心的に行っても元気にならない。やればやるほど、世に言われる老人病院の姿に近くなっていく事を思い知らされたんです。「こんなはずではない」という毎日でしたね。

    ────やめようと思われた事はありませんでしたか。

    始めた以上は荷物を背負ったわけですから後戻りはできませんが、「こんなことなら、やるんじゃなかった」と思う毎日でしたね(笑)。職員が集まらない中で病院を運営することが、こんなに大変なこととは思いませんでした。

    病院を始めた当初は資金が限られているものですから、最低限の人数で始めたんですね。看護師10人でスタートしたのですが、開業して3カ月ほど経ち、入院者も60人くらいになった時点でそのうちの6人が一斉に辞めてしまったんですよ。「仕事があまりにも凄まじい」と言うんですね。老人病院ですからお年寄りには手がかかるし、開業したてで仕事の流れも定まっていない。婦長として私の片腕になってくれていた人が「もう私には務まりません」と言い出したら、他の5人が「辞めます」と言って6人がどっと退職してしまったんです。

    翌日からは、残った4人の看護師で60人を超える患者様を看る毎日です。その日の夜勤を頼める人をようやく見つけてお願いして、翌朝にその人が帰ると、院内に残っているのはその日が初出勤の看護師とパートの人だけというような状況。業務そのものが、とにかく回らないわけです。募集すると少しは応募がありましたが、みんなその凄まじさに驚いてね(笑)。一日で次々と辞めていって、それはもう大混乱でした。

    ────その時はどんなご心境でしたか。

    ともかく、今夜をどうしのぐか、明日をどうしのぐかという事しかなかったですね。医師も実質的には私とパートの先生を順番につないで、ようやく回すという状況です。薬剤師もパートの人だけでしたし、レントゲンの技師に至ってはそもそもいない。医者はレントゲン撮影も調剤もできる資格がありますから、全部自分でやる。当直も頼むとお金がかかりますから、自分でやる。

    2月にスタートして、その年は正規の当直だけで130回ほどやりました。その他に約100日病院に泊まりましたから、最初の年はほとんど家に帰らなかった。そういう時期があったお陰で、病院経営がいかに大変なものかが分かりましたね(笑)。

    ────職員の方々が定着するようになったのは、いつ頃のことですか。

    9カ月ぐらい経ってからですね。特段何かをしたわけではないんですが、何人か核になる人に頼んで仲間を連れてきてもらうといったことで、徐々に定着するようになってきました。

    今では、法定人員の1.5倍(常勤換算)の職員を配置。その分入院費は他の病院に比べて高額になり、4人部屋で日額約1万円、個室は2万円。入院費が高いことを指摘される事もあるというが、「この病院は、豊かな最晩年を開発するための実験研究センター」(大塚氏)と、理想を追う姿勢を崩さない。各病棟には担当スタッフの名前が顔写真入りで公開されている。

    流れに逆らわず、逆境をチャンスに変える

    ────では、現在のこの病院の姿を理想と描いて始められたわけではなかったのですね。

    そんな先まで考える余裕は、全くありませんでしたね。今日一日をどうしのぐかという、とにかくそれだけでしたから。うちのいろいろな取り組みというのは、外部的な要因で転がってきた物が多いんです。過剰な医療をしないという方針もそう。開業して7、8カ月ほど経った時でしたか、健康保険組合に保険請求をしたらバッサリと拒否されてしまったんです。他の悪徳病院と同じに見られたんですね。それなら点滴も薬も全部やめてやろうというくらいの対応をしたら、お年寄りたちがずっと元気になってきたんですよ。

    点滴や薬よりも、むしろ職員の手による介護の方がずっと元気になると知って、「目指すものはこれだ」と。そこで方向転換をしたんです。ここからですね、うちのスタイルができてきたのは。

    ────保険請求を拒否されたことが、思わぬきっかけになったのですね。

    そう。それがあって一大転機を迎えたんです。

    ────同時期の1982年には、体育大学の出身者を「生活活性化員」として採用するといったことも始めておられます。

    これも、外部的な要因から始まったものです。当時はリハビリの職員を募集しても、応募がまったくなかったんですよ。リハビリの勉強をしている人たちは、老人病院で働くなんて思ってもみないんですね。それなら、元気のいいのをどこかから探してくればいいという程度の発想です(笑)。

    私の家内の母が体育大学で教えていたものですから、「大学で就職に困っている人はいないか」と声をかけてみたところ、たまたま来たのがとてもいい男でしてね。そうだ、こういうイメージの人を院内にたくさん配置すればいいんだということで、その翌年から何人かまとまって採用するようになったんです。

    ────体育大学からは、学生の応募はありましたか。

    応募と言うよりは、体育大学を出たけれども教員採用試験に受からず、次の試験までやる事がないといった人たちが、まず第一候補。1年のつなぎでもいいから、元気のいいのを送ってくれという話で事がスタートしたわけです。

    リハビリの職員の仕事は患者様を元気にすること。それなら資格を持っていなくても、ともかく元気のいい人に来てもらおうと。そうしたら他の職員も元気が出るんじゃないか、みたいなね(笑)。

    ────採用された方は戸惑われたのではないですか。

    そりゃあ、何をしていいか分からない中に、突然放り込まれたわけですからね(笑)。私が伝えたのは、「あなたの役割は、この病院の中を少しでも活気づけることだ」と。これだけです。第1号として来てくれた男が大変なアイデアマンで、自分で道を切り開ける人材でしたので、それは本当にラッキーだった思いますね。彼は結局、うちの病院に10年以上いて、生活活性化員の位置づけや患者様向けのレクリエーションといったものを、みんな自分で切り開いて作ってくれましたのでね。今では出身母校である仙台大学に准教授として迎えられて、福祉レクリエーションの第一人者として活躍していますよ。

    15ある病棟それぞれに生活活性化委員が配属され、日曜日を除いて毎日、生活活性化員や理学療法士による「体操・筋力強化トレーニング」が実施されている(写真左)。また、入院患者の豊かな生活を実現する専門職として、生活活性化委員の他にレクリエーションワーカーを配置。病棟ごとの患者の健康状態に合わせて、「ビデオ鑑賞会」や「趣味の会」などを企画している(写真右)。

    常識を疑う。そこから新たな道が開ける

    ────開業4年目の1985年には、患者様の身体抑制(手や体をベッドに縛ること)を廃止されました。これも、老人医療に一石を投じるためのお取組みだったのでしょうか。

    いや、そんなに大それた考えではなくて、これもたまたまだったんですよ。その頃にはうちも老人病院の世界で少しずつ知られるようになっていまして、ある時、週刊朝日の大熊一夫さんという医療問題を告発して歩くことで有名な記者が、うちの病院を「泊まり込みで一週間取材させてくれ」と言ってきたんです。

    かつて私が精神科の勤務医だった時に、近くの病院がやはり彼に告発されて、半潰れ状態になったことがありましてね。「いよいよ、うちもこの人に潰されるのか」と(笑)。断ったらまた何を書かれるか分かりませんから、こうなったら病院の中のあらゆる物を見てもらおうと覚悟を決めたわけです。

    そして彼が来た初日に、こう言いました。「あなたに書かれることでこの病院は潰れると、私も覚悟を決めた。ただ、どうせならあなたが来た記念に、今夜から患者様の抑制を全部止める。それでどんなことが起こるか、あなたもつぶさに見てよ」と。彼がうちの病院を見て一番興味を持つのは何かと考えたら、患者様の抑制だろうと思ったんです。

    認知症が進んだ患者様というのは、夜になると不穏になって一斉に動き出すんですね。それを防ぐために、夜はベッドに縛りつけるという状況があったわけです。患者様を縛りつけるなんて人権侵害も甚だしいけれども、夜中に動いたら転んで骨折する危険もあります。それを防ぐためには縛らなくてはいけない。だから「あなたが最も書きたくなる事のはずだから、開き直って今夜から全部ほどくことにする」と。職員には「一切縛るな」と指令を出したんです。

    そうして翌朝に様子を聞いてみたら、看護師たちが「皆様、とても静かでした」と言うんですよ。もう、「えーっ!」と驚きましてね。骨折防止だとか、他の患者様に危害が加わるのではないかと考えていたことは、みんな私たちの思い込み。夜中に大声を出していたのは、縛られる事を嫌がっていたからなのでしょうね。そこで以降は、「縛る事一切まかりならぬ」という運営に変えたわけです。ですから、そんなに高い志があってやったわけではなく、外部的な要因によって実現された事なんですね。

    ────抑制を止める事による、最悪の事態も想定されましたか。

    その時は、その時です。そう考えるしかないですよね。

    ────事故は起こりませんでしたか。

    まったく起こりませんでした。

    ────記者の方も驚かれたのではないですか。

    そう、大熊さんもびっくりですよ(笑)。ですから結局、その時の週刊朝日の記事はまったくネガティブな感じではありませんでしたね。

    ────保険請求が拒否されたから点滴や薬を止めよう、週刊誌の記者が取材に来るから抑制を止めようといった決断は、どういったご心境でされるのですか。

    もう、開き直りなんですね。自分が今までやってきた事が正しいのか、あるいはあなたの言うことが正しいのか、と。私はすぐに開き直ってしまうんですよ(笑)。

    思い切った権限委譲で、現場の自主性を育てる

    ──── 一方で組織運営の面でも、病棟の独立運営制や委員会制度などユニークな取り組みをされています。どのような経緯でこれらの仕組みを作られたのでしょうか。

    病棟の独立運営制は、増築がきっかけです。病床数147床でスタートして、2年後には283床になり、その3年後に2回目の増築をして558床になった。1985年の夏ごろのことです。283床の時には病棟が4つありまして、その4つの病棟のコントロールにはすごく苦労したんですね。

    当初は、どの病棟も同じクオリティで運営される事がいいと思って、いろいろな事をマニュアル化し、中央の指令のもとに運営していました。だけども、みんなで「こうしよう」と決めたことも、翌日から各病棟でまったく違った風にやっている。なぜかというと、各病棟にはそれぞれの事情があるんですね。構造的な問題や患者様の状態が違うから、同じように動かすことは難しいわけです。

    そんな中で2回目の規模拡大が決定し、病棟が4つでも大変なのに7つになったら、クオリティなんてどこかへすっ飛んでしまうのではないかと思いましてね。それならいっその事、7つの病院があると考えて、「各病棟が自由に運営してよい」という風に変えようと。「運営は各病棟の看護師長に一任する。各病棟のスペースとベッド数に応じた職員数と予算をあげるから、やりたいようにやってくれ」と、発想を変えた。それが、病棟独立運営制のスタートだったんです。

    ですから、さらに上を目指してやったというよりは、これまた開き直りでね(笑)。今までのやり方ではもうダメだから、「あなた方に任せる」ということだったわけです。

    ────各病棟に任せる事は、怖くはありませんでしたか。

    その気持ちは十分ありました。何が起きるか分かりませんのでね。だけども、ともかくやってみてダメならまた考えればいいという、その程度の発想ですよ。私は、物事をあまり深くは考えないんです。何事もやってみないと分かりませんからね。

    ────任せたものの、やはり口を出したくなるといった事はありませんでしたか。

    そういうことは、なかったですね。私の手のかかり方は今までの半分以下になり、各病棟のクオリティは今までよりも上がった。スタートからとてもうまくいきました。

    それまで中央で持っていた予算を各病棟に与えるようにしたら、例えば、何本支給してもすぐ足りなくなっていたボールペンや消しゴムといったものの消費が半分以下になったんですよ。家にあまっている鉛筆やボールペンを持ち寄ったりしてね。花なども、中央の予算で買っていた時には、提供してもすぐに枯らしてしまう。だけども、「自分たちの予算で買え」と言った途端に、枯らさないどころか「花屋から買うのはもったいない」と、みんな自分の家から持ってくるようになったんですよ。

    ────大変な変化ですね。

    そういう事なんだと思うんですね。自分たちの裁量で物が買えるようになりましたから、そうやって予算を捻出して、自分たちが欲しい食器棚や家具調度類を買えるような状況にしていくんですね。

    ────病棟独立運営制の導入準備として、職員教育といった事もなさったのでしょうか。

    もちろん、師長を集めて話はしょっちゅうしますね。彼女たちなりに、「これはどうすればいいのか」といった事がたくさんありますから。絶えず会議もしましたし、夜の飲み食いもしました。そういう意味では手がかかりましたが、生産性はずっと上がりました。

    中央からの指令で「あれをやれ」「これをやれ」と言われていた時の方が、「どうすればいいか分からない」という事が多かったように思います。病棟独立運営制にしてからは、「患者様に一番喜んでもらえる事、あるいはご家族に喜ばれる事を考えろ」と。指令はそれだけですから、みんなそれぞれに考えて、いろいろやっていましたね。

    病棟には、職員のアイデアから生まれたさまざまなイベントのお知らせが掲示されている。中でも1992年から続く「慶友コンサート」や1994年に始まった「美食倶楽部」(プロの料理人を招いての食事会。写真右)は人気のイベントだという。

    現場に任せた分だけ、現場とのコミュニケーションを強化する

    ところが、しばらくやっているうちに、病棟間のいろいろな格差が見えるようになってきたんですね。そこで、最低限のクオリティを保つための指標を決めて、品質評価をやるようにしようと考えて始めたのが委員会制度です。これも、「最低限これだけは達成してくれ」という、その程度の発想なんですよ。

    ────委員会はいくつ作られたのですか。

    「品質評価委員会」と「サービス向上委員会」、もう1つは、当時は違う名前でしたが「フードサービス研究会」というものと、3つですね。

    ────委員会のメンバーはどのように選ばれるのですか。

    うちでは、組織はできるだけフラットにいきたいと思っていますので、各病棟の責任者は師長1で、それ以下の役職者は一切置いていません。ただ、そうすると師長1人で30人から40人の職員を見ることになります。病院の方針を伝えるには1人だけでは弱いし、現場の意見を吸い上げるにも、やはり師長1人を通してだけでは弱い。そこで、委員会には師長をサポートする役割も持たせているんです。

    ですから、各員会のメンバーは各病棟の中核になっているナンバー2、ナンバー3、ナンバー4といった人たち。病院からの情報はその人たちに対しても積極的に出し、その人たちを通して各病棟の情報を取るという仕組みです。

    例えば、何か新しい施策を導入してみて、師長からは「とても上手くいっています」と報告が来ているけれども、他の委員会メンバーに聞くと「いや、大変です」と、言うことが違うとかね(笑)。それを聞いて少し方向を変えてみるといった事は、たくさんあります。師長を補佐するバイパスとして委員会メンバーがいることで、チャネルが非常に多くなったんですね。

    職員の採用難や健康保険組合による保険請求の拒否など、予期せぬ偶然のアクシデントをチャンスに変えることで青梅慶友病院は発展を遂げました。しかし理念型組織の実現は、「偶然をチャンスに変える力」によるものだけではありません。どのようにして、組織に理念を浸透させたのか。後編では、評価や採用などの人事面の施策を伺います。

*続きは後編でどうぞ。
  「理想の病院作り」に学ぶ、理念型組織のあり方(後編)

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