2007年10月アーカイブ ..

黒川温泉観光旅館協同組合
代表理事 後藤 健吾さん

| | コメント(0) | トラックバック(0)
  • <$MTEntryTitle$>

    地域を再生させた、「本物」にこだわる改革とは(前編)

    年を追うごとに時代のスピードは速くなり、企業にもますますのスピード経営が求められています。迅速な事業展開、迅速な組織変革......。しかし一方で、効率を重視するあまりに問題の本質を見失う弊害が指摘され、地に足をつけた経営が見直される機運も高まってきました。時間をかけて熟成させるからこそ生まれる競争力の強さとは。本当の変革とは。黒川温泉観光旅館協同組合の代表理事、後藤健吾さんに伺いました。

  • 黒川温泉http://www.kurokawaonsen.or.jp/

    熊本県阿蘇郡にある温泉で、温泉地としての歴史は江戸時代に遡る。もともとは山あいのひなびた温泉地であったが、すべての旅館に露天風呂を設け、街全体に雑木を植えて「日本のふるさと」を再現。地域の旅館の露天風呂を3つまで自由に巡れる「入湯手形」を発行するなど独自の改革を行い、年間に100万人以上が訪れる人気温泉地となる。旅行雑誌「じゃらん九州発」が行う「行ってよかった観光地」調査では、1998年から2003年まで6年連続で1位を獲得する。

    KENGO GOTO

    1954年生まれ。76年、父が山河旅館開業。同年、家業を手伝うために帰郷。93年に山河旅館、代表取締役に就任、97年に黒川温泉観光旅館協同組合理事に就任。2006年、黒川温泉観光旅館協同組合代表理事に就任、現在に至る。

  • すべては、一軒の旅館の改革から始まった。

    ────黒川温泉は「黒川温泉一旅館(いちりょかん※)」をビジョンに、さまざまな改革を成し遂げてこられました。どのような道のりでいらっしゃったのか。今日はそれをお聞きできればと思います。

    ※道は廊下、各旅館は部屋と考え、黒川温泉の全体を『一つの旅館』と捉える黒川温泉の改革ビジョン。

    黒川温泉は、今でこそ年間に102万人(※)が訪れる温泉地になりましたが、その昔は各旅館が運転資金の借り入れもできないような状態だったですね。そこで組合を作れば信用もできるだろうということになって、昭和36年に観光旅館協同組合が設立されたんです。

    ※日帰り客を含めた入り込み客数。平成18年度の推定。

    その後に、ちょっとしたブームはありました。昭和39年だったですかね。東京オリンピックがあった年です。『やまなみハイウェイ』という別府と阿蘇をつなぐ九州横断道路ができまして、黒川の近くにも料金ゲートができたおかげで、2、3年は賑わったですね。しかし黒川に魅力があって賑わったわけではないもんですから、ブームが去った後、昭和40年代に入ってからは、再び閑古鳥が鳴くような状態でした。

    私らも「どうにかせにゃいかん」と考えるんですけども、なかなかアイデアも出ませんでね。当時はまだ若かったもんですから、仕事に身が入らないようなところもあって(笑)、毎日ソフトボールの練習をしているような状態だったですね。仕事といえば、老人会や宴会のお客さんをマイクロバスで送迎する運転手ぐらいで。

    しかしその頃、一軒だけ繁盛している旅館があったわけです。それが新明館(※)なんですけども、そこの社長(後藤哲也氏)が組合の会議に来られる度に、一生懸命いわれるわけですね。「露天風呂を各旅館に作って、それでお客さんを呼ぼう」と。なんで露天風呂かというと、黒川温泉は湯量が豊富なんですね。そして、田舎の温泉地の特長ですね。その「田舎らしさを活かすべきだ」と。それを一生懸命いわれるけれども、組合の執行部を始めみなさんは無視するわけです。

    ※黒川温泉の改革の旗手といわれる、後藤哲也氏が経営する旅館。哲也氏の改革は著書『黒川温泉のドン 後藤哲也の「再生」の法則』(朝日新聞社刊)に詳しい。

    その時代は、熱海とか別府とか、団体旅行で発展した温泉街に憧れているところがあったと思うんですよ。「旅館をするからにはホテルを目指そう」といった、箱モノ志向というんですかね。「少しでもお客さんを多く入れよう」というような考えでした。

    しかし組合を設立したものの、それでも借り入れができない。だから何もできないような状態だったですね。ただ、新明館だけは賑わっていたもんですから、若い人間は哲也さんのいわれることに同調できたわけです。「こういう良い意見を出されるのに、何で一緒にできないんだろうか」と。そんな疑問を、私たちは持っていたんですね。

    中でも、私のところの旅館は黒川の中心からかなり離れたところにあります。しかも親父が金がないながらに建てたもんですから(笑)、バラックみたいな旅館で。老人会を車で連れてくときもですね、黒川の中心街を通ると「この辺りに下してもらえる」と、みなさん思っている。けれども、だんだんと離れて山に入って行くもんで、不安になってくるわけです(笑)。そうして着いたら、「何だこの旅館は」といわれて。今はある程度の雰囲気ができていますけども、昔はもうひどかったんですよ。旅館の敷地を流れる川はコンクリートでいけすみたいに仕切ってあって、屋根は波トタン。それが何しろ恥ずかしいもんですから、何とかしたいということで後藤哲也さんに相談したわけです。

    後藤健吾氏が経営する「山河」旅館の敷地には、風情ある雑木林が広がる。山から雑木をや石を一つ一つ運び、何年もの歳月をかけて作り込むことで、この景観が生まれた。

    そうしたら、「雑木を植えて旅館を隠せ」と。哲也さんとしては「田舎の自然な雰囲気を作れ」という意味でいわれたのを、私は「なるべくボロを見せないように木で隠そう」と考えたんです。そこでまっすぐ等間隔に植えて「こういう風にしました」と見せたら、「これじゃおかしい。自然が出てない」という。そこで改めて哲也さんの指導を受けて、自然に寄せ植えをしたり、木と木を離したりという植え方を始めたわけです。

    地域全体が変わらなければ、本当の競争力は生まれない。

    次に、若手グループのリーダーが哲也さんに相談に行ったところ「露天風呂を改修しろ」といわれたんですね。「木も植えなさい」と。いわれた通りにしたら、その旅館の業績が急に良くなってきたわけです。それが、昭和50年代の中ごろのことだったですかね。ちょうどテレビが露天風呂を取り上げるようになって、その追い風もあったとは思います。けれども、実際にその旅館が良くなってきたもんですから、みんなが「我もわれも」とね。誰も踏み切れないでいる中で、一人それを破る人が出ると、「自分も」となるわけです。そうして、そのリーダー格の人がやることを真似し、哲也さんにも指導を受けながら、各旅館が露天風呂を作ったり雑木を植えたりし始めまして。昭和も60年代に入るころには、どこの旅館にも露天風呂がある、今の状態になったわけです。

    そこで、これを何とか外に打ち出す方法はないだろうかと考えていたときに、ある講演を聞きましてね。野沢温泉で今も旅館ホテル事業協同組合の組合長をされている森さんという方の講演です。最初は、「熊本市内で講演がある」といって若手のリーダーが聞きに行って、感激して帰ってきたわけです。「すごい講演を聞いてきたから、ぜひ野沢温泉に行こう」と。それが昭和59年か60年でしたが、ちょうどその頃組合長が新しく変わりまして、その組合長も「一緒に行こう」ということになってですね。みんなで野沢温泉に行ったわけです。

    そうしたら、野沢温泉の森さんがいわれるには「自分の経営に傾ける努力の半分を、地域に向けなさい」と。「黒川にも良いものは必ずあるからそれを活かして、各旅館ではなく黒川全体を外にアピールしていきなさい」といわれるわけです。論語を引用して、「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず(※)」と。楽しんでやりなさいということをいわれる。

    ※「あることを理解している人は、それを好きな人には勝てない。あることを好きな人は、それを楽しんでいる人には勝てない」という意味の孔子の言葉。

    私らも若いもんですから、感動しましてですね。少しでも地域に貢献できるようなことをやろうじゃないかと。では、地域を売り出すためにはどうするかとなったときに、当時の組合長が組合の中に『企画班』『看板班』『環境班』というのを作って、その班長に30代の若手を抜擢してくれたんですね。それで、俄然やる気が出てきたわけです。

    1枚1200円で3つの旅館の露天風呂を楽しめる、共通入浴券。日帰り客も利用可。小国杉の間伐材を利用した直径10センチほどの手形は、黒川温泉名物となっている。後藤哲也氏も著書の中で、「前進するのも一緒なら、苦労するのも一緒。(中略)この基本を崩したらいかん。(中略)僕に言わせれば、手形はお客さんのために作ったのではありませんのじゃ(「黒川温泉のドン」より)」と語っている。

    そこで企画班が考えだしたのが入湯手形(※)です。その頃では非常識ともいえる考え方ですよね。地域の共同浴場を回る『外湯巡り』というのは他所にもありますけども、黒川のは個人旅館の露天風呂を巡ることができる。これには反対も相当あったんですけども、組合長が「若い人たちが一生懸命考えたことだ。黒川を何とかするためにやろうじゃないか」と決断していただいて。

    これが予想以上のヒットになるわけですが、実は入湯手形にはもう一つの目的があります。その当時、2軒ほど露天風呂がない旅館があったんです。敷地の都合でどうしても露天が作れない。黒川全体で露天風呂を売り物にしていくとなると、その旅館は不利になります。けれども、そこのお客さんも入湯手形で他の旅館の露天風呂に入れるとなれば、その旅館を救済できる。やるなら黒川全体を浮上させるものでないといかんという考えで、できたものでもあるんです。

    ところが入湯手形を始めると、他の旅館の浴衣を着た人が自分のところの露天風呂に入りに来ることになります。最初は、それに相当の違和感があったですね。けれどもだんだんと「自分の旅館の魅力を上げないといかん」という、そういう考え方になってくるんです。黒川全体を良くしていこうという発想で始まったことから、競争意識も芽生えてくるわけです。

    また、お客さまが温泉街の中を出歩かれるということは、より一層、黒川全体の雰囲気を良くしないといかんということですね。そこで『浴衣姿が似合う町』を目標に、温泉情緒や四季の風情を感じる街にしていこう、街全体で雑木を植えようということになったんです。私たちはすでに、個人で自分の旅館には植え始めていたんですけども、哲也さんの強いリーダーシップで「黒川全体で植えようじゃないか」と。

    雑木を植えるほかにも、公衆電話ボックスも古民家を模した木造の建物にする、軒下にさりげなくとうもろこしを吊るすといった、「日本のふるさと」を演出する工夫が随所に見られる。

    そうすると、今度は金がない。そこで県に相談したところ、計画整備課の課長さんが「そういうことなら補助金を出そう」と。毎年200万円を3年間支給していただきました。それで雑木を買い付けて、空地や公園といった公共の土地にみんなで植えていったんです。でも、面倒くさいわけですね。「どうして自分の旅館以外のところに木を植えないといかんのか」と。しかし、汗をかいてやっているうちに、だんだんと一生懸命になってくるわけですね。「自分が植えた」という愛着も湧いてくる。「全体が自分の庭」というような考えになってきたわけです。ですから、最初は公共の土地に植えていた程度だったのが、旅館と旅館の間にブロック塀があったところも壊して雑木を植えました。そうすれば、その旅館から見る風景も良くなるし、隣の旅館から見る風景も良くなる。旅館と旅館がつながって一つの景色になっていくわけですね。そういう良さがだんだんと分かってきたんです。

    2割が改革に動き出すと、残りの8割もついてくる。

    ────個人旅館の塀まで取り払うなどは、反対もあったのではないかと思います。どのようにして全体をまとめていかれたのですか。

    足並みは揃ってなかったです(笑)。雑木を植えるのにも、反対が相当あったんですよ。「雨どいに落ち葉が詰まって掃除が大変だ」とか、「同じ植えるなら、桜やツツジなど花がつく派手な木を植えるべきだと」とか。それを、「いやそうじゃない。山にある自然を温泉街に引き入れて、山の自然と温泉街をつないだ有機的な街づくり──難しいいい方をするとそいうことなんですけども(笑)──をしようじゃないか」ということで進めていったんですね。

    反対があってもやってきたのは何だったでしょうかね。あの頃に新しく変わった組合長が若手を抜擢して、理事には後藤哲也さんも入っておられたわけですが、「若いやる気のある連中を応援していこう」と思ってくれていた。その支援は大きかったですね。

    それまでは若手の有志で、九州電力から古い電柱を譲り受けて名所の看板を作るといったことをしておったわけです。何人かでやっておったもんですから、他の若い人たちは「何であいつらだけでやっとるんか。協力せんぞ」というような感じになっていたんですね。有志の側にしてみたら、全体を巻き込みきらないわけですよ。「どうせいっても反対されるだろうから、やる気のあるもんでやろう」となってしまってですね。

    けれども、『パレートの法則(※)』ってあるでしょう。8:2の法則ね。あれみたいなもんで、20軒ある旅館うちの4軒か5軒が有志で動き出すと、他の人たちが「一緒にやろうじゃないか」という雰囲気になってくるんですね。足を引っ張っていたのは全体の2割で、あとの6割はどっちでもいいわけですよ。

    ※イタリアの経済学者、ヴィルフレド・パレートが提唱した法則。「上位20%の高額所得者に社会の富の80%が集中する」という所得の不均衡を示すものから転じて、「優秀な20%の社員が80%の業績を生み出す」など、さまざまな場面に応用されている。

    やっている側にも、「これは黒川のためだ」という大義名分があるわけです。「全体が良くなるために自分たちは動いているんだ」と。これも強い支えでしたよね。それを、哲也さんたちが強烈に支援してくれる。僕も、弱音を吐いてたこともあったんですよ。けれども哲也さんが、「これは絶対に間違ってないから、やんなさい」といってくれるもんですから、そういう支援があってでできたことなんです。

    それに、若手グループのリーダーの旅館が、哲也さんの指導を受けたことによって業績が良くなっているわけですね。そうやって結果を見せるもんですから、納得させられるところもある。雑木の植林も反対を押して続けているうちに、お客さんが評価してくれるようになってきたんです。「この温泉は自然があるね」「雰囲気がいいね」と。これも、励みになりましたし、こういったことがいい連鎖をしていったということじゃないかと思うんですね。

    小国杉を黒く塗って作った看板。後藤哲也氏によると、「今でこそ黒い木の看板は珍しくなくなったが、この頃はまだ少なかったとです(「黒川温泉のドン」より)」という。

    こうして、一軒一軒が「離れ」のように見える、雑木林に囲まれた温泉街にしていこうということで進めていくとですね、今度は看板の話になってきましてですね。組合に『看板班』ができたのも、看板に問題があったからなんです。一畳も二畳もあるような赤や緑の個人看板が周辺に300本ほども乱立しておったもんですから、これを何とかしようと。そこで決起して、個人看板をすべて撤去しました。その代わりには、景観に合うような共同看板を作って、それでお客さまを案内しようということで。これも相当な反対がありましたよ。けれども組合長が、「若い人間にやる気が出ているんだからやろう」といってくれて。それで、撤去したわけですね。

    これが黒川の最初の起こりです。何しろ、やるときは全体やっていこうと。これを主眼にしたわけです。それを支援してくれる人も現れました。熊本日日新聞という新聞があるんですが、マスコミに取り上げてもらおうということで、何かやるときにはそこに必ず連絡をしていたんです。そうしたら、全体でやっているということに記者の方が好意を持ってくださって、小さなことまでも新聞に取り上げていだいて。そんなことからも活動が広がっていったんですね。

    悪条件の中で絞った知恵ほど、強い力を発揮する。

    山河旅館に風情を添える雑木。以前は旅館のすぐそばまで畑があった土地に、手作業で雑木を植えていった。

    ────後藤健吾さんは、今では雑木の権威だと伺いました。

    いや、雑木については私が一番熱心だったかもしれませんね(笑)。何しろ分からないから哲也さんに相談しましたし、お金がないもんですから自分たちで山に行きましたしね。地主の方からいくらかの金額で分けてもらうわけですが、掘るのも運ぶのも自分たちです。哲也さんもね、紅葉の木が2本あると「良い方をあんたにやるよ」といわれるんですよ。そういう優しさがある人ですね。ですから、うちの旅館の前のなどは、ほとんど自分で掘って乗せた木ですよ。掘れたときは「やった!」と思うわけですが、道がないところは何百メートルも背負って運んできて。本当にきつかったですね。

    ────昔はこの庭がなかったというのは、信じられませんね。

    昔からあったように植えていますからね。ただ山の木を植えれば自然になると思うでしょう。違うんですよ。ここに植えたらここは離して、逆にここは寄せ植えするとか。それができたのは哲也さんがおられたからですね。実は私も、「哲也さんのいうことは本当だろうか」と思いまして、一流の造園家の本を買ってきて勉強してみたことがあるんですよ。そうしたらだんだんと、哲也さんは有名な造園家以上のことができるというのが分かってきたわけです。

    他所でも雑木の植林をやっているところはありますが、僕らから見るとまだまだ。「何となく雰囲気がいいな」という言葉にできない心地よさがあるのは、植えた人たちの技量によるもんです。「心地よさとは何ぞや」ということを意識して植えている。それでいて、意識して植えているようには見えない植え方をしているわけですね。

    苗木を植える植樹とは異なり、黒川温泉では成木を植える。後藤哲也氏は、京都や軽井沢、由布院など自然が残る観光地を何度も訪れ、景観や建物の作り方を研究したという。「僕はメジャー(巻き尺)を持って京都の街を歩き回っとりました。雰囲気的に「重み」のある民家を見つけては屋根の高さや厚みを測り(中略)、自分の頭に叩き込んでいました(「黒川温泉のドン」より)」

    ────後藤健吾さんの『山河』旅館では、業績がよくなるといった手ごたえは、どれくらいので感じられるようになりましたか。

    露天風呂を改修したリーダー格の方の旅館は2、3年でよくなってきましたが、僕のところは時間がかかりましたね。何しろ、入り口の坂の雰囲気ができてきたのが5年目ぐらいですからね。

    ────5年間、雑木を植え続けるというのも大変なことですね。

    いやそれはもう、お客さんに恥ずかしくない風景を作りたいと。私がそれを一番思っていたもんですから(笑)。お客さんが来られて、「何だここは」とはいわれたくない。だから、植えるスペースがあれば、とにかく植えていこうということでやっていましたね。

    ────お金があったら、業者に頼んで改装されていたかもしれませんね。

    そうですね。お金がなかったから、良かったのかもしれんですね(笑)。僕の親父も、お金がかからんからということで認めてくれたわけですしね。最初は煙たがってたと思うんですよ、親父たちも。「何で新明館の社長がウチまで来てから、手を出すんだ」と。そうやって親の代と相当に対立した旅館はほかにもありましたが、みんな、強硬にやったですよね。

    ────そういった中から『黒川温泉一旅館』という結束が生まれてきたのですね。

    (後編へつづく)
    こうして国内有数の人気温泉地となった黒川温泉ですが、競争力の源である「日本のふるさと」の景観を守るためには、また新たな道のりが待っていました。後編では、黒川温泉の成功の、その先に待っていたものに迫ります。

*続きは後編でどうぞ。
  地域を再生させた、「本物」にこだわる改革とは(後編)

元気株式会社
代表取締役社長 栢森 秀行さん

| | コメント(0) | トラックバック(0)
  • <$MTEntryTitle$> (写真右)
    専務取締役 開発本部長 木村 智治さん (写真左)

    現場の自主性を育む改革とは(後編)

    企業には、「創業期」「成長期」「成熟期」「衰退期」と発展段階があるといわれます。「創業期」には、創業者の強力なリーダーシップのもとで事業の基礎を固め、「成長期」「成熟期」と発展するにつれて現場への権限委譲が進み、組織としても成熟することが理想とされますが、創業者のワンマン経営から脱却できずにいる企業が少なくないのが実情です。トップダウンへの依存体質をぬぐい去るにはどうすればよいか。元気株式会社の代表取締役社長 栢森秀行さんと、専務取締役 開発本部長 木村智治さんに伺った後編をお伝えします。

  • 元気株式会社http://www.genki.co.jp/

    1990年設立のゲームソフトメーカー。『首都高バトルシリーズ』『街道バトルシリーズ』などのヒット作で、レースゲーム界における独自の地位を確立する。剣術アクションゲーム『剣豪シリーズ』にも根強い固定ファンが多い。2002年にコナミと業務・資本提携を行い、2005年にコナミが保有する株式をダイコク電機に売却したことで、ダイコク電機のグループ企業となる。

    HIDEYUKI KAYAMORI

    1968年生まれ。2005年にダイコク電機株式会社代表取締役副社長に就任。2006年に元気株式会社の代表取締役社長に就任。ダイコクグループ各社(DIXEO株式会社、DAXEL株式会社、元気モバイル株式会社、DO株式会社)の代表取締役も兼任。

    TOMOHARU KIMURA

    1964年生まれ。1990年に創業メンバーとして、元気株式会社に入社。1999年に専務取締役開発本部長に就任。

  • 上司が部下に関心を持つための、
    遊び心あふれる仕掛けを導入。

    ────現場のコミュニケーションを活性化するにあたって、具体的にはどのような施策を導入されているのですか。

    木村 最近、運用を始めたものに『スキルアップシート』というものがあります。個人が、3カ月後なり1年後なりの目標を立てるというものです。ただし、テーマは仕事とはまったく関係のないもの。例えば「私は今年中に映画を10本観ます」とか、「車の免許を取ります」とか。何でもいいんです。その目標に対して上司が立ち会い人になり、「達成したらジュースを1本おごる」といった契約をして、「達成状況はどう?」と定期的に確認しながら進めていく。こんな仕組みで運用しています。

    ────面白いですね。

    木村 開発の現場はプロジェクトで動きますから、一つのプロジェクトが解散すると次は違うプロジェクトの配属になる。ですから、縦の関係が弱いんですね。「彼の上司は誰?」というのと、上司から見て「部下は誰?」というのが一致しないときもある。それは問題ですよね。

    「コイツにはこうなってもらいたい」という上司の下で部下が育って、上司も部下も一緒にステップアップしていくという関係が、最近なくなってきている。そこで、「ぜひそれを作ってくれ」と。「人の紐づけをしてほしい」と部長、副部長に頼んだんです。そうしたら、「誰が誰にぶら下がっているか分かりません」という者もいたのですが、「分からないではなく、とにかく結んでみて」とやらせて、その中から出てきたアイデアが『スキルアップシート』でした。これによって、上司と部下を一応は紐づけることができます。コミュニケーションを取るにはいいツールだと思って、許可してどんどんやらせているところです。最終的には、期末に社長や副社長が全員のスキルアップシートを見て、達成した人の中で「これはすごい」というものに社長賞を贈る予定です。

    栢森 親会社が「やれ」といったわけでなく、元気として独自のアイデアが現場からあがってきているのは非常にうれしいとこですね。初回はやはり、仕事に直接結びつかない物を社長賞として選んであげないと、と思っています(笑)。

    ────仕事に関係のない目標というのはいいですね。

    木村 仕事に結びつけると幅も狭まりますし、ただでさえコミュニケーションが取れていないのに取れるわけがないですからね。仕事にしてしまうと、「スキルアップシートを書くのは業務なんですね」など、趣旨と外れる質問も出てくるんですよ。ですから、「業務以外のこと」という条件で提案させたわけです。そうすれば、部下が書いたものに対して「こんな趣味があったんだ」といったことも分かりますよね。

    ────専務の『スキルアップシート』はないんですか?

    木村 私もね、やりたいんですよ。『スキルアップシート』を書いて、社長に「達成したら家を買ってください」とかね(笑)。

    ────報償も大きいですね(笑)。

    栢森 書くのは自由ですからね(笑)。

    木村 部長クラスなど、私が立ち会い人になっている者は何人かいますよ。「○○の資格取得に向けて○○を勉強します」という目標に対しては、最終目標は「試験に合格する」でいいと思うのですが、「その過程として、勉強したかしなかったかを毎日、報告してください」と。そして、「最終的に達成できたら好きなものをご馳走する」という約束をしているんです。

    栢森 いいコミュニケーションのきっかけになっていると思います。コミュニケーションというのは、「おはよう、こんにちは」という挨拶だけではありませんからね。

    ────相手に関心を持つということが大切なのですね。

    木村 そう、それが非常に重要だと思います。最近、周囲に関心を持たない人が本当に増えていますから。

    ────みなさんの反応はいかがですか。

    木村 楽しんでやっている者もいますし、「面倒くさいな」という者もいますね。

    栢森 「こんなの約束するんじゃなかったな」、とかね(笑)。

    木村 「こんな物は意味がない」という人もいます。そういう人も何年か時間をかければ、やってよかったと感じてくれるかなと思いましてね。やらないよりはやったほうがいいですからね。

    ────「企画公募制」という、商品企画を募る制度も設けておられますね。

    木村 これは、最初はお祭り感覚でスタートしたものなんです。始めたのは、2005年の9月ごろですね。「何か面白い遊びを創りだしたい!」「エンターテイメントに携わる仕事がしたい!」という人が多く集まっていますから、企画セクションだけのアイデアだけでなく、みんなから募集してみようという声があがったことが始まりでした。新しいアイデアを発掘するだけでなく、社員が事業に積極的に参加するきっかけにしたい。そう考えて始めたものなんです。

    ────制度導入後の、社内のご反応はいかがでしたか?

    木村 いろいろな人が参加してくれましたよ。当初は、表彰するということは考えていなかったのですが、がんばって参加してくれたので何か賞を設けないといけないと思い、『入選、佳作、特別賞』を作りました。1回の公募に集まるのは15件ぐらいでしょうか。スタート直後はもう少し応募があったのですが、最近では15件前後で安定しています。

    ────「企画公募制」から商品化につながったものもあるのですか。

    木村 ありますよ。「これで恥をかかない 明日つかえるDSビジネスマナー」というDS用のソフトがそうですね。もちろん商品化につながらないものもたくさんありますが、どの作品に対しても必ずフィードバックをしています。発想の良し悪しだけではなく、「次はこう練り直したらよいのでは?」というアイデアの磨き方や、「重要なポイントをいかに熱く伝えられるか」、「企画書の書き方のテクニック」などを、一人一人に返しているんです。

    「これで恥をかかない 明日つかえるDSビジネスマナー」

    (C)2007 GENKI

    『ビジネス』、『ビジネス用語』のほかに『一般常識』、『作法』、『雑学』、『恋愛心理』の6ジャンルから合計500問が出題され、クイズ形式でマナーを学ぶことができる。

    社内行事は強制しないことで、社員の参加率が高まる。

    ────フットサルなどの社内サークルも活発だと伺いました。

    木村 そうですね。先日は、関東のダイコクグループで試合もしました。元気だけで4チーム出場しましたね。

    栢森 当初は、何人かでグランドを借りて抗戦をしようかという程度だったのが、話が膨れ上がって、結局、総当たり戦になったんですよ。

    木村 日が暮れるまでやってましたね(笑)。

    ────最近は社内行事を嫌がる人が増えている中では、珍しいことですね。

    栢森 会社から押し付けた行事ではありませんからね。そういう動きが下から上がってきてくれるのは、うれしいですね。

    木村 元気も昔は社員旅行を必ず行っていたのですが、嫌だという人が増えてきたような気がして、6、7年前に止めてしまったんです。「社員旅行は業務だから参加するように」といえば、「それなら出社して仕事します」という人がいたり(笑)で、みんなが喜ばないものに経費と時間をかけるのはどうかという話になりまして。ところが、ダイコク電機では全社集会を毎年1回必ず開き、社員旅行も実施している。こういうのが必要なんだよなと、改めて感じているところです。

    最近の新入社員に聞いても「昔は社員旅行があったんですか? またやるなら行きたいです」というんです。ですから当社でも、ぜひまた復活させたいなと思っています。集団で行動することも大事なのだと、今になって分かりました。

    栢森 ダイコク電機の場合は、社員旅行といっても全員で同じところに行ってワーッと宴会をするわけではないんです。目的地だけ決めて、そこで一応は立食パーティなどを開くのですが、そのパーティに参加しさえすれば交通手段も自由、家族や彼氏、彼女を連れてくるというのも自由だよと。

    社員旅行の参加資格も明確な基準を設けています。年商目標に対して何%以上の上乗せをし、昨年の実績に対して少なくともプラスであること、損益分岐点比率が何割以下であることなど、いろいろな条件を決めまして、「それをクリアしたら海外旅行にみんなで行こう」と。

    そして、ハワイとラスベガスと北海道の3カ所でパーティを開きまして、好きなパーティに出ていいという風にしたんです。休みも月曜日から金曜日までの5連休。前後の土日を合わせて最大9連休で現地に行ってもいいし、旅行に使うのは2、3泊ということでもいい。パーティに参加したくないという人は、旅行費の補助は出しませんが、休みを取るだけでもいいよと。これは、若い人にはすごく好評でしたね。みんなで温泉地に行って宴会をしたいという50代の社員には「統一感がない」と批判されましたが(笑)。

    社員が自発的に、「組織活性化委員会」を組織。

    ────『組織活性化委員会』という委員会活動もされているそうですね。

    木村 副部長会の中に委員会が含まれるという形で活動しています。まずは、社内に休憩室を作るという活動をし、9月末にオープンしました。自動販売機やテーブル、椅子などを置いた、ちょっとした休憩スペースなのですが、もともとは私の役員室だったんです。それが委員会のメンバーから「使いたいので出てもらえませんか」といわれまして(笑)。私も席は社員に近いほうがいいなと思っていたものですから、明け渡したんですよ。で、「何に使うの?」と聞くと、「休憩スペースを作りたいんです」と。

    社内に喫煙ルームはあるんですが、煙草を吸わない人からも「ああいう場を作ってほしい」という声が出ていたんですね。ちょっとしたカフェ風のテーブルと椅子も、これは各部長の有志で出して設置しました。今後、社員から何か要望があれば副部長会で検討してもらい、社員がすごしやすいスペースになるようなものであれば設置していく予定です。

    ────有志とは、すごいですね。

    木村 経費削減といっているのに会社に請求しようとしていたもんですから、「いいよ、出すよ」と(笑)。いや、大した金額じゃないんですよ(笑)。

    ────喫煙ルームなどでの何気ない会話が、仕事を円滑に進める上で意外に役立つというのは、よくいわれることですね。

    木村 そうですね。私も、あまり良いことではないのですが、喫煙室で、「じゃあちょっと、これお願い」と、仕事の話をしてしまうことがありまして......。煙草を吸わない人からは、「木村さん、煙草部屋で仕事を進めないでください」といわれますが(笑)。それと同じように、煙草を吸わない人のための休憩室もほしいということなんですね。

    ────社員のみなさんの自主的な活動からそういった動きが出るというのは、素晴しいことですね。

    木村 組織活性化委員会も副部長研修のワークショップから派生した活動です。「社員は常日頃からいろいろな要望を持っているけれども、それをいきなり社長に対して『こうしてください』ということはできない。まずは自分たちが社員の要望を聞く入り口を作ろうじゃないか」ということで、発足したんです。

    全社員に無記名のアンケートを実施し、
    組織の課題をあぶり出す。

    ────みなさんの要望は、どうやって吸い上げておられるのですか。

    木村 副部長研修を実施する前に、組織の課題を明らかにするために、無記名で全社員からアンケートを取る『組織診断』を行ったんです。そこに寄せられた意見や要望に対して、「これはすぐに解決できる」「これは少し時間がかかる」と、一つひとつ潰していっているところです。

    ────『組織診断』には、意見が多く寄せられたのですか。

    栢森 とにかくみんな、たくさん書いてくれました。会社を変えようという意気込みが非常に感じられましたね。

    木村 読む側は、悲しい思いで読みましたが......。誰が書いたかなどはわかりませんが、良いことなんてほとんど書いてないですからね。ちょうど1年近く経つのですが、読んだ人たちからも「やっと心の傷が癒えてきた」という話を聞きます。書かれている内容は想定の範囲内ではあったのですが、無記名なので好きなように書いてくるんですよ。ですから、いわれる側としては傷ついたことも多かったと思います。

    栢森 とはいっても、あまりストレートにいわず少し婉曲に表現していたり、気を使って書いているなというものも結構ありましたよ(笑)。

    ────みなさんが共通して指摘された、特徴的な問題などもあったのでしょうか。

    木村 「会社の方向性をもっと明確にしてほしい」、「社長の話を聞く機会がほしい」といったものが一番多かったですね。全社集会もこれをきっかけに開催するようになったんです。

    ────調査や研修がそれだけで終わってしまう企業も多くありますが、御社は活動を継続されていることがすごいですね。

    栢森 私は細かい指示は何もしていませんから、木村専務を始め、部長、副部長、リーダークラスの人たちがきっちりフォローしてくれていることが大きいですね。

    ────人と組織の問題は先送りできるだけに、手をつけられずにいる企業も少なからずあります。

    木村 私も、先送りしたいと思うことはたくさんありますよ(笑)。けれども、ワークショップを経てから部下の意識がすごく変わりまして、必ず議事録を残しているんです。そして、「この案件は木村専務待ち」などと書いて、私にしつこく提出してくるんですよ。今日もそういう案件を発見してしまいまして、決裁して「もうこれで議事録から消してね」とお願いしたところです(笑)。

    そうこうするうちに、ワークショップに直接関わっていない2年目、3年目の社員が、毎月1回イベントを開催して、社内のコミュニケーションを深めるという活動を始めていますしね。「ビアガーデンにジャズを聴きに行く」とか──これは大雨に降られて、ほとんど聴けなかったようなのですが(笑)──イントラネットの掲示板で告知して募るんですよ。ビアガーデンは、20人ぐらいで集まって行っていましたね。先日も昼休みを利用して、みんなに「何が楽しいか?」というヒアリングをしていたようですし。

    ────そういう動きが起こるきっかけが何かあったのですか。

    木村 こちらが何かを指示したということはありませんので、やはり何か空気を感じたのではないでしょうか。「自分たちも何かしないと」と。本当に感謝しています。

    上からの圧力ではなく、社員の自発性が組織を変える。

    ────現場から自発的な変化が起こる、その一番の原動力はどこにあるのでしょうか。

    栢森 私が見ていても、ここまで自主的に変化が起こるのはすごいと思うんですよ。何が原動力なのか、私が聞きたいくらいで(笑)。ダイコク電機ではちょっとしたことを変えるのにも時間かかるのが、元気では変えることが楽しいというくらいの雰囲気で動いてくれているんです。業界が厳しい状態が続いているだけに、成果報酬などもないにも関わらず、みんなモチベーション高くやってくれている。早く業績を良くしてあげたいと、本当にそう思いますね。

    木村 一番の要因は、社長を始めとする親会社のダイコク電機の方々の接し方だと思います。強引に改革するのではなく、少し待ってくれているといいますか、余裕がある感じがするんです。少し前まではそれに甘えていたのですが、これではいけないんじゃないかとみんなが感じ始めたんですね。それで動くようになったのだと思います。自分たちで動いていかないと組織は変わらないということが分かって、何とかしなければと思う人が増えてきたのだと思います。

    ────みなさんの中に自発性が自然に生まれるまで待つというのは、経営側にとっては我慢のいることですね。

    木村 そうですね。業績が好調だったときには、みんな売り上げをあまり気にしていなかったんだと思います。考えていたのは、「さあ、次は何を作ろうか」ということだけで。作品が売れて、結果が出て、会社が黒字になっているということは、気にしていなかった。それが逆に業績が悪くなってからは、「このままではまずい」と考えてくれる人たちが増えたという気がします。

    経営側としては、業績が下がり始めたときに、社員が自分たちで考えるように仕向ける施策をもう少し取り入れていればよかったというのは、今になって後悔していることです。けれども一方で、マイナスになった時点での改革のほうが強いという気もします。

    業績の良いときに組織に手を入れるというのは、なかなかできませんよね。業績とタイミングを常に見ながら変えていくということが大事なのかもしれません。以前は「会社が方向性を見出していないのに自分たちに何をしろというのか」という声もありましたが、ワークショップ以降は、そういった話はまったく聞かなくなりました。今後は、このモチベーションを継続させていかなければいけないと思っています。

    ────組織を変えるのは、上からの圧力ではなく社員の方々の自発性だということを実感しました。ありがとうございました。

« 2007年9月 | メインページ | アーカイブ | 2007年11月 »

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.1

このアーカイブについて

このページには、2007年10月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2007年9月です。

次のアーカイブは2007年11月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。