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組織はどうすれば蘇生するのか?
老舗企業の自主再生ドキュメント強い志を持って創業した企業も、拡大期、発展期、成熟期と成長のステージを経るにつれ、さまざまな課題を抱え始めます。どうすれば、過去の惰性から脱却して組織を蘇生できるのか。株式会社アイジーコンサルティングの井上剛一C.E.O&代表取締役に伺いました。
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株式会社アイジーコンサルティング (http://www.ig-consulting.co.jp/)
1899年創業、1975年設立の井上白蟻研究所を前身に持ち、「快適な住環境事業の創造を通じて社会と社員の生活向上に貢献する」ことを企業理念に、住宅のメンテナンス、リフォーム事業、耐震事業などを展開。100年を超える歴史を通じて培われ、重要文化財の保守・点検も任される技術力は高い評価を受ける。2004年にはグリーンシート市場に株式公開。
GOICHI INOUE
1966年生まれ。シロアリ駆除業の自営を経て、91年に井上白蟻研究所に専務取締役として入社。96年に代表取締役社長に就任、2002年にリフォーム事業や耐震事業などの関連5社を統合してアイジーコンサルティングを設立。
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四代目の社長が事業継承。
最大の課題は社員のモチベーションの低下。────現社には1991年、専務として入社されたと伺っています。
そうです。父と叔父が一緒に経営していたのですがその叔父が急に亡くなりまして。「早く入社するように」という私への遺言があり、叔父の遺言ならこれはやろうと。会社の運営に関わり始めたのはそこからです。
────ご入社当時、会社にどのような課題をお感じになったのでしょうか。
当時は井上白蟻研究所といいまして、明治32年からシロアリ消毒を手がけ、国の重要文化財の保守・点検を1社独占で任されるなど、伝統のある会社でした。けれども、悪い意味で"殿様商売"的な経営になっていたといいますか、"お客さま"という概念がなく顧客を"依頼者"なんて呼んでいた。妙に傲慢でこちらから営業することもせず、夕方の5時にはタイムカードの前にずらっと社員が並ぶんですよ。経営内容もよくなく、当時、売り上げが約4億で、負債が約2億、月次決算も赤字続き。そういう状況からのスタートでした。
────業績が悪化した要因は何だったのですか。
昔は当社の1社独占でしたが、その当時は競合が数千社に増えていましたので、それだけ競争も激しかったんですね。たくさんあったお客さまからの申し込みも、どんどん減少していた。黙っていれば、縮小せざるを得ない状態だったんです。
子どもながらに父の会社はもう少しいい会社だと思っていたのが、フタを開けてみたら「なんだ、ひどい会社じゃないか」と。非常にショックでしたね。私がイメージしている会社と実態とのギャップを感じまして、これは何とかしなくてはいけないと。その当時、バランスシートや損益決算書を見ても意味が分からないような状態でしたが(笑)、とにかく黒字化させないといけない。ただそれだけで始めました。
────社長がイメージされていた"会社像"と、どのようなギャップがあったのですか。
私で四代目になるんですが、「昔は"先生"と呼ばれた」とか、「白衣を着て重要文化財の保守をしていた」とか、そういった話を聞かされていましたので、それならば老舗中の老舗で、伝統に培われて安定的に売り上げが伸びているんだろうという雰囲気を想像していました。
────しかし、実態は違った。
伝統に対する誇りもないし、売り上げは悪い。社員は士気を失っている。そんな状態でした。
全社員の意識を調査。
社員を入れ替える大ナタも振るう。────まず、何から手をつけていかれたのですか。
会社を変えなくてはいけないと、『浜松経済クラブ』などの勉強会に出席していろいろな経営者の方とお会いする中で、あるコンサルティング会社の人に出会いまして。「今いる人材の活性化を考えてはどうですか」と提案があり、全社員の意識調査をしたんです。そこから、「会社を変えるんだ」という雰囲気が社内にでき始めたように思います。
────意識調査の結果はいかがでしたか。
やはり、ひどかったです。目標が明確でなく、方針が現場に落ちていない。企業理念も形骸化している。そういった問題が明らかになりました。給与が低い、福利厚生が整っていないなどの、俗にいう"不満"もたくさん出てきた。しかし、結果は基本的には結果は予想の範疇。目的は社員に喝を入れることだったんです。世の中と比べるとあまりにもひどい状況なんだということを、第三者の言葉で認識させたかった。ある意味、前向きなモチベーションではないですね。「コノヤロー、ふざけんなよ」という感じでしたから(笑)。
────調査結果は社内にもオープンにされたのですか。
もちろんです。全店長を集めて、結果に対して「ここがいい」「ここが悪いと」徹底的に話し合っていきました。それまで社内にはコミュニケーションがありませんでしたから、コミュニケーションができたことはよかったのですが、それでも会社は変わらないんですね。なかなか。
では、どうしようかと。そこで考えたのが、もう一度会社を再構築しようということでした。私は父の会社を"引き継ぐ"つもりはなく、いかに"乗っ取る"かということばかり考えていたんです。やんちゃだったといいますか(笑)。けれども当時、父のブレーンともいうべき社員が約40名いまして、そこに私がパッと入るわけですから、それはすごい風当たりでしたし、誰も私を相手にしない。
しかし、その中でも志を同じくできる社員が数名いまして、その一部の幹部と1年間ぐらいをかけて、まずは経営ビジョンを作り上げていったんです。意識調査の結果を踏まえて、どんな会社にしていくべきかを議論し、『快適な住環境事業の創造を通じて社会と社員の生活向上に貢献する』という経営理念を立て、その当時売上4億円だった売り上げを何年後かに30億円にしようと中期経営計画も策定した。ビジネスモデルも"過去物件のリピート営業"に特化することを決め、これで会社を再構築していこうと。
次にやったのは人材の中途採用です。当時40名だったところを、同数の40名を採用して80名にしたんですよ。
────思い切られましたね。
そうですね。父についてきてくれた人たちにも、もちろん感謝はしていますが、そこではもう戦えない。新しく作り上げた経営理念に賛同するメンバー40名と旧態依然のメンバー40名とを競わせようという感じですね。採用したのは、「一緒に会社を乗っ取ろう」と呼びかけた募集のキャッチフレーズに共感する20代の若い者ばかり。そうしたら、それはやっぱり結果が出てきますよね。
────当時はまだ専務でいらっしゃいましたが、そういった中途採用を先代の社長は反対されなかったのですか。
今思うと、大らかでしたね。私にやらせてみようと密かに期待していたのか、叔父が亡くなって父も疲れていたのか。それは、分りませんが。
────80名になったときの社内の雰囲気は、どのようなものでしたか。
私も鈍かったので(笑)、あまり気にしていませんでしたね。おそらく、古い社員は煙たがっていたところもあったんでしょうし、入社してきた若い社員も迷いなく仕事をしていたかどうかは分かりませんが、「会社が変わる」「会社を変えていくんだ」という実感は、持ったはずだと思います。
────採用した方々への期待は大きかったと思いますが、どのように動機付けして引っ張っていかれたのですか。
まずは、「この会社を乗っ取ろう」ですからね。いかに乗っ取るか、です。これだけの伝統と基礎があるわけだから、いいものは徹底的に活用して、ダメなものはどんどん排除しようと。「俺たちで経営するんだ」ということは常に言い続けましたし、「弊害となるものは、どんどん私に言え。片づけていくから」というような話をよくしましたね。
────実際に社長にお話が上がってくることもあったのですか。
ありましたね。例えば、「あそこの営業所では、社長に『はい』『はい』と言っていますが、実はみんなやる気がなくてサボってますよ」とか。そういう情報が入ってくるわけです。私も25歳と若かったですから、そういう話を聞くと若いやつらを連れて行ってワッと行きましてね。当時、営業所に10名ぐらいいた社員を1日で全員クビにして、全員入れ替えるということもしました。ひどいですよね(笑)。勝算はないです、何も。しかし、本気だということは見せなくてはいけない。
事前に行った意識調査の結果からも、ある程度の確信は持っていたんです。あ、これはもう、ダメだなと。会社へのロイヤリティが完全にありませんでしたから。調査が後押しになり、社員の入れ替えは一気にやりました。赤字続きで、このままの態勢でいても仕方がない。やれることはやろうという感じですよね。今思うと恐ろしいですが(笑)。
────社内はどれくらいで落ち着かれたのですか。
3年くらいかかりましたね。人員を整理する一方で採用も続け、3年後に約120名になった段階で落ち着いたように思います。
ワークアウトで現場主導の改革を実現。
不満を逆手に、社員を巻き込んでいく。────採用と並行して、どのような手を打たれたのですか。
意識調査の結果には「ビジネスモデルやビジョンが不明確」、「給与体系に不満がある」などの重要な課題も含まれていた。そういう、大きな問題点に対してワークアウトのプロジェクトチームを次々と作りました。要するに、手を挙げさせるんです。「給与が低い」という不満を言う社員がいるとします。そうしたら、彼らを集めて「どうすれば給与が増えるのか、勉強会をやろう」と。
勉強会をすると、例えば「給与を上げるには、生産性を高めなくてはいけない」、「粗利を上げなくてはいけない」といったことに気付き始める。では、そのためには何をしなくてはいけないのかということを考えさせるわけです。業績と連動した給与にするべきなのか、どういう行動を給与に反映させるといいのかということを「自分たちで考えろ」と、巻き込んでいく。不満を逆手にとって、勉強させて、巻き込んでいくというプロジェクトをいくつも立ち上げ、そこでのアウトプットを核にしながら会社を再構築してきました。
────何をプロジェクトにするかということは、社長が決定されるのですか。
問題提起は、もちろん社員から出てきたもの。それに対して、これは必要だというものには決裁を出しましたが、社員の関心が低いことはダメ。「これに対してプロジェクト作りたいが、一緒に考えたい人は?」と言って、誰からも手が上がらなければ却下です。
────プロジェクトにはしない、と。
そうです。ですから、手を挙げる社員がいるか、それも信頼できる社員から手が挙がるかということが、そのプロジェクトがスタートするかしないかということに非常に大きく関わるのですが、結果的には社内のコアなメンバーの意見を抽出するということに、一番役立ちました。彼らがリーダーシップをとって、それについて行く社員がミニマムで集まるわけですから。
といっても、いちばん最初は、社員も何をしていいか分からなかったと思いますね。もともとは不満ですから。不満を言ってみたら、「会社のために勉強しろ」と言われるわけですから、面喰ったと思います(笑)。けれども出てきたアウトプットは採用しますので、「あ、これは会社が変わるんだな」という実感が徐々に広がり始めて、みんな楽しんでやっていたと思います。「会社って変えられるんだ」と。入社当初から私が言っていた「俺たちの手で会社を乗っ取る」ということが現実味を帯びてきて、「俺たちが考えたビジョンで、俺たちが考えた戦略で、俺たちで考えた給与体系で、会社を再構築させるんだ」という意識は、参加している全員が持っていましたね。
組織は一人の天才が作るものではない。
全員参加の議論が、正しい答えを生む。────そういったプロセスの中では、社員の目線が揃うのに時間がかかるといったことが往々にして起こり、我慢ができないという経営者の方もいらっしゃいます。
いやあ、それはイラつきましたね。非常に。
────それでも、必要なプロセスだったと思われますか。
その方が正しい答えが出ると信じているんです。一人の天才が考えるよりも、みんなで議論したほうが失敗しないという気がするんですね。トップダウンで納得させられればいいですが、それではインサイドアウト(内面から湧き出る)のモチベーションにはつながらない。軍隊のような企業風土を作ってしまえば、一生懸命にさせることはできます。しかし、"一生懸命"と"本気"とは、全然違う。"一生懸命"って、強制されればできるわけです。「働け!」と言われれば一生懸命やる。けれども"本気"とは、自分が心地よく楽しむために自ら動くこと。似ているけど、違います。"本気"にさせないと、社員の力は引き出せないと思うんです。
その本気を引き出すためには、プロセスがものすごく重要。プロジェクトのプロセスの中にはコミュニケーションがあるわけです。喧々諤々の議論もある。でも、その中でメンバーの間に"一緒に会社を作り上げていこう"という信頼が生まれる。そこが重要だなと思うんです。
────社長はプロジェクトには、どう関わるのですか。
プロジェクトの方向性が変な方向に走ったときは、私も入って議論しました。ややもすると、労働組合みたいな状況になるんですよ。そういうときは、戦略というわけではなんですが、課題図書をこちらから出しましたね。例えばその当時、CSのプロジェクトだったら「リッツカールトンについて書かれた本を読みなさい」とか。書籍にはコアなテーマがありますから、方向性がコントロールできるんです。ですから私の読書が大変でしたが(笑)、社員数も100名や200名ぐらいまでは、みんなで作り上げるっていう感触がありましたから、楽しかったですよ。
────具体的にはどのようなことが形になっていったんですか。
まずは給与体系ですね。今はその役目が終わって廃止しましたが、360度サーベイで全社員を評価する手法も取り入れました。今では当たり前のことなのでしょうが、その当時、部下が上司を評価するということは、結構センセーショナルだったんです。シロアリ消毒以外のビジネスの可能性も常にみんなで議論していましたので、「住環境全般に貢献することが我々のビジネスだ」というビジョンのもとに、新しいビジネスの模索も始まりました。 "R&E(リサイクル&エコロジー)"をキーワードに、リフォームや耐震補強の事業が生まれた。このことは大きかったですね。
────ワークアウトはどれくらいの期間、続けられたのですか。
96年ごろから2000年ごろまでですから、約4年間。ひとつのプロジェクトのアウトプットまで、たいていは3か月、長いものだと半年くらいでしょうか。常に5つぐらいが走っていて、かけもちする社員もいましたね。
3年間で売り上げは4億円から10億円に。
しかし、第二の壁を経験する。────ビジョンが明確になると、事業も広がりますね。
そうです。シロアリを予防するという本業は変わらないのですが、事業の意味や価値をみんなで再定義したわけです。我々の仕事というのは、単にシロアリを殺すことだけではないのではないかと。それは木材保存であるし、住宅や社会インフラを守ることでもある。もっと言えば地球環境の保全でもある。やっていることは一緒でも意味や価値を定義付けることによって、社員のモチベーションが上がってきました。事業も住宅全般に目線が行くようになり、社員の視野が広くなってきたというのは、常に感じていました。
────ご業績はどうだったんですか。
良くなっていきましたね。私が入社した91年当時4億円程度だったものが、同じシロアリ消毒の事業で、3年後には10億円まで行きましたから。一番の要因は、社員を入れ替えたことと、リピート営業というビジネスモデルを確立したこと。その当時は、業界でも顧客のリピート営業という概念があまりなかったんです。訪問販売はたくさんありましたが、我々は訪問販売はしない、と。工務店さんとのお付き合いの中で、新築のときから担当させていただいているお客さまのリピート営業をコアにやっていこうということが、ビジネスモデルとしてよかったのだと思います。
────御社の"伝統"も強みになるモデルですね。
そこはうまくマッチしましたね。若いメンバーでもすぐに結果が出ますし、モチベーションも上がる。そんな感じで、私が入って7年目になる98年ごろまでは売り上げが伸びまして、12億円くらいまで行ったんですよ。そこで、少し頭打ちになるんです。売り上げ12億円、社員数は120名。そこでひとつの壁があったように思います。
────何が原因だったんですか。
よく分りませんが、やはり企業にはそういう壁があるのだと思うんです。そこで何か新しい業態を作らなくてはいけないということをワークアウトで模索しながら、リフォームと耐震事業に参入していくわけです。それがまた、当たっちゃったんですよ。チラシを配ったら、一気に仕事がワーッと入ってきまして、34、35億円まで一気に伸びた。シロアリ消毒も営業力が付いてきて1割だったリピート率が7割近くにまで上がり、そちらの業績も20億円まで伸びた。そして、会社が一気に肥大化して、シロアリ消毒と耐震、リフォームの事業をそれぞれ分社化し、子会社をホールディングとして管理する会社を作ったんです。
私は社長を退いて会長になり、次には会長も退いて、オーナーという立場で経営の前線を離れたんですが、今思えばこれが間違い(笑)。そうしたら、業績がパタッと止まったんです。本業のリピート営業が飽和したということもあったのでしょうが、何か社内がバラつき始めまして。そこで、2002年に関連5社を統合してアイジーコンサルティングを設立して再び社長に戻り、今に至っているわけです。
自分のためではなく"誰か"のために働く。
その原動力が、組織を強くする。────組織が拡大すると、社長の目も届かなくなりますよね。
不思議なものですね。100名までは性格と顔と、家族構成まで全部頭に入っていたのが、150名を超えた瞬間に、幹部の30名ぐらいしか分からなくなる。それまでは100名全員で作り上げてきた会社から、一部の幹部が方向付けて、それを下していく経営に変えていったんですが、それが当社には合わなかった。そのことを今、つくづく感じています。最近、社員を約140名にまで絞りましたので、もう一度、昔のような全員参加型の会社にしようと、まずは、社員の意識調査を計画しているところです。
────組織の何を、一番変えたいとお考えですか。
住宅のメンテナンス業という本業にもう一度立ち帰り、お客さまと長期的なお付き合いをさせていただくビジネスモデルに戻していくことを、全社員に再認識させたいと思っています。今は、ビジョンが微妙にズレているんです。リフォームは"夢を売る"とか、耐震は"安心な住宅を売る"とかね。住宅のメンテナンス事業は"木材保存"だとか、"長期的な工務店さんとの付き合い"だと言う。少しずつズレているんです。そこをまとめて、共有できるものにしていきたい。私の中にはある程度の落とし所はあるんですが、全社員の議論の中でアウトプットしていくほうが、結果的には早いんだろうなと思っています。
────企業には、創業期、拡大期、発展期、成熟期とステージによって、さまざまな派生課題があると言われています。そのすべてをご経験され、今振り返ってみられて、"強い組織"とはどのよう組織だと思われますか。
当社は今、140、150名の会社になり、大きな組織というわけではありません。この位の規模の中小企業にとっては"何をやるか"ということよりも、"誰とするか"のほうが重要だということを実感しています。コミュニケーションの中でビジョンを共有し、事業を作り上げる。それを徹底的にやることが強い企業文化を生み、強い風土を育てるのだと思うんです。
"自分のためにビジネスを立ち上げよう"とか"自分の成功のためにやる"ということではダメで、"誰かのためにやる"という感触といいますか。"誰のため"は、誰でもいいんです。"自分がこうしたいから"という、その程度の力だと弱いんですね。でも、父親でも母親でも妻でも子どもでもいい、社員でもいいし上司でも部下でもいい。そういう"一人"に喜んでもらうためにやるという、そこがすごく重要なんです。"その人"を喜ばせようと思うと一生懸命やるし、うきうきしますよね。それが"本気"。「やれ!」と言われても、やると思いますよ。でも、それは違う。誰かを喜ばせようというときのモチベーションというか、感覚。そこにもっていかないとダメで、そういう意識の人間が多ければ多いほど、強い組織だと思うんです。
────"誰のため"は、誰でもいいんですね。
いいんです。ただ一番重要なのは、オールアザーズ(その他大勢)にしないこと。例えば、私が「社員のために」と言っても嘘くさく、きれい事になってします。「鈴木を喜ばせたい」「佐藤を喜ばせたい」と、社員一人一人に対してきちっとやっていかないとダメなんです。そこがきちんとできるかできないかが勝負だと思っていまして、そのためには社員数は今いる140名ほどの規模じゃないとできないというのが実感。社員全員に対して、「あいつはこうだったら喜ぶな」、「あいつにこういう生活をさせたら、生活が楽になるな」と、そこが見えてないと私の場合はダメなんです。「全社員のために」っていうのは、できないんですね。
────ありがとうございました。