2007年7月アーカイブ

『お台場にできた新都市』でないことを知ったのは、つい数ヶ月前のこと。

英語で書くと"Diversity"。"多様性"と翻訳される。
日本では一言で"ダイバーシティ"と表現するが、これは英語の"Diversity & Inclusion"を省略したもので、本来は"多様性の受容"を意味する。

そこで意図しているのは、外見上の違いや内面的な違いにかかわりなく、すべての人が各自の持てる力をフルに発揮して組織に貢献できるような環境をつくること。人種、性別、年齢、身体的障害の有無などの外的な違いだけでなく、価値観、宗教、生き方、考え方、性格、態度、などの内面も皆違う。『こうあるべし』と画一的な型にはまることを強要するのでなく、各自の個性を活かし能力を発揮できるような組織をつくる。それは、個人にとってプラスであるだけでなく、組織自体にとっても大きなプラスである。という考え方である。

ダイバーシティの考え方も、それを組織内で推進していこうとする活動も、アメリカで始まった。
もともと「黒人と白人女性」に対する差別的な人事慣行(採用、業績評価、キャリア開発、昇進など)を撤廃し過去の差別の結果を正そうとする動きがはじまりだった。
過去アメリカでダイバーシティと言えば「黒人と女性という弱者救済」のプログラムとしてだけ捉えられていましたが、アメリカの社会に「さまざまなマイノリティ」(例えばメキシコ系やアジア系アメリカ人、同性愛者、高齢者、障害者、退役軍人など)が登場し、権利を主張するようになり、ダイバーシティの考え方も、より広い「マイノリティ」すべてを包括する考え方に変わってきました。現在多くの組織で行われているダイバーシティに関する活動は、あらゆる意味での多様性を尊重し、すべての人が同じ人権を持っているという考え方に根ざし、各自が持っているさまざまな能力をフルに発揮できる社会を作ろうという方向に変わりつつある。

私は先日ある一部上場企業の、2日間に渡るダイバーシティ研修にオブザーブとして聴講させていただいた。そこでは、女性活用だけでなく、年下上司/年上部下、雇用形態、外国人雇用、などの多角的な観点からダイバーシティについて議論がされた。

最近、ダイバーシティが注目されている背景には、「さまざまな個性を持った従業員がフルに能力を発揮することによって、新しい商品が生まれ、画期的なプロセスが実現し、新しい顧客に支援される企業が生まれる」という「人材」に対する再認識がある。つまり「人」という財産を上手に活かせる企業こそが飛躍的発展ができるという認識が生まれてきたからではないだろうか。

 世の中には人種差別、宗教差別、民族差別、女性差別、障害者差別、職業差別、方言差別、外国人差別など、さまざまな差別が存在する。
差別とは、自分との違いによって相手を卑下し、偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱いである。

しかし、人は常に他者と自分との違いを意識して、その違いを認識し、自分を確立していくのではないだろうか。つまり、人は常に自分と他人とを区別しているのである。

現在、多様性について見直されるようになったのは、差別があったことに問題があったのであって、区別があったことに問題があったのではないと思う。

日本の社会は欧米社会に比べて組織の中に階級意識が比較的少なく、企業内でも職位に関係なく従業員が「会社のために」と考え、自らの仕事の改善を自発的に行う傾向があるそうだ。また、ボトムアップという形で現場の意見を経営判断に活かす機会を設けている企業も増えている。

他方、日本の社会では「和」や「人と同じように」、「ある集団にふさわしい行動規範」などに高い価値を置いているのも事実。このような概念はそれぞれ重要な価値だと思うが、一方では「一般的でない、人と違ったもの」を排斥しがちになることも否定できない。

女性活用の議論になると、女性を差別するのは良くないから、男性と同じように扱うのがいいのではないか、とういう議論がよくなされる。しかし、私はそのことが正しいのかどうかわからない。
女性を男性と同じように扱うというのは、キリスト教を信仰している人に、日本にいるのだから仏教徒として扱うと言っているのと同じではないだろうか。キリスト教を信仰している人と、仏教を信仰している人では、根本から違う。それを同じように扱うことは平等ではないのは、誰の目にも明らかである。

私は、区別することが悪いのではなく、区別した上で差別することが悪であると思う。とはいえ、他人の違いを認め、受け入れることは、そう簡単なことではない。

ダイバーシティと聞くと女性活用のことと思う人は多いが、多様性の問題は女性だけでなく、さまざまなところで起きている。また、個人個人の価値観で判断してしまっている部分が多い。これまでと考え方をガラッと変えるのは難しいが、「多様性」のスタンスを根底に持っているのと、いないのとでは、会社に対する考え方や、社員に対する考え方が大きく変わってくるのではないだろうか。
全て区別するのは、その人の視点。視点を変えたらどうなるか。

また、ダイバーシティへの取り組みは、社会レベルでの変革、組織レベルでの変革、個人レベルでの変革と3つのサイクルが必要となる。どれか一つだけでは機能しない。土台となるものがしっかりしていないと、個人の意識を上げても、企業の体質や上司の考え方が、多様性に否定的であれば、なかなか力を発揮することができない。ダイバーシティの取り組みは全社的に行わなくてはいけない。

ダイバーシティ
多様性とは、どちらかが妥協するのではなく、お互いが歩み寄ることではないだろうか。
その基準に優劣はなく、差別もない。あるのは『違い』のみ。
 多様性とは、人と人との歩み寄りであり、違いを認め、お互いに受け入れる器を持つことではないだろうかと思った。

                               OBT協会  伊藤誠司

「人間の価値はその人がどれくらい自分自身から解放されているかによって決まる」    アインシュタイン

人は例外なくさまざまな組織に所属している。大きいところで言えば、日本という国家であり、小さいところで言えば、家族になる。もっと大きく考えたら地球であり、その「それぞれが地球に属している」と言う考え方が「グローバルな考え方」の根本なのかもしれない。

国が悪い、政府が悪い、日本社会が悪い、会社が悪い、上司が悪い、家庭環境が悪い、親が悪い。
アメリカが悪い、イラク政府が悪い、共産主義社会が悪い、他社が悪い、先方が悪い、あいつが悪い。

人はなにかと自分の所属している組織、もしくは、自分が所属している組織以外のせいにしたがる傾向がある。つまり、自分には責任がないと思いたい。
それは自然に身についた自己防衛本能なのかもしれない。
しかし、そんな責任逃れのような言葉であっても、本人にはきちんとした理屈があり、正しいと思っている場合が多い。それは、個人の価値観であり、生き方であるのかもしれない。

日本の政治は悪い。
そうかも知れない。しかし、そんなことを言っている人が、選挙にも全く関心がなかったりする。
確かに、今の日本の政治が悪いのは自分のせいだと考える人は少ないし、そう思う必要があるのかどうか正直分からない。しかし、政治家を目指している人は少なくとも、自分のこととして受け止めているはずである。

自分の周囲で起こっている物事に対して、どこまで、自分のこととして受け止められるか、どこまで、自分との距離を縮められるか。そうすることによって、考え方は大きく変わってくると思う。

他人事にしているうちは、いつまでたっても他人事のまま変わらない。自分のこととして受け止めることができたとき、自分の事として考えることができたとき、初めて見えてくるものがある。そして、そこからしか、改善策は生まれないのだと思う。

そのことを先日オブザーブした研修で学んだ。
初日には経営層のせいにしていた部長クラスの方々が、二日目には自分たちのこととして受け止め、議論し、改善策を打ち立てていった。
もし、いつまでたっても経営層のせいにしていたら、自らが改善策を考えることもなかったと思う。

悪いところは誰の目にも映りやすい。
自分も例外ではなく、これまでの人生を振り返ってみても、他人や自分が所属している組織のせいにしてしまっていたことが多かった。

しかし、本気でその事に向き合ったとき、本気で改善していこうと思ったとき、最終的には自分自身に行き着くのだと思う。

メタ認知
認知を認知すること。人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。
また、現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力をメタ認知能力と言う。

,b>どれだけ、メタ認知できるか。
メタ認知の深さが、その組織、その人の進歩(成長)を決めるのかもしれない。
組織にとっても、個人にとっても常に付きまとう、大きな課題の一つと言えるだろう。

                                 OBT協会  伊藤誠司

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