2006年8月アーカイブ


わかるためには定量情報ではなく定性情報が重要になる!

今ほど巷に情報が溢れている時代はない。新聞、雑誌、書籍、インターネット等自分がその気になりさえすればどんな人でも必要な情報は簡単に且つ公平に入手できる時代である。
然しながら、情報量の多さから入ってくる情報が処理しきれないというのが今の実態ではないだろうか。このような時代には、自分にとって必要な情報だけを選別して活用するという情報感性は、大事ではあるものの、もっと重要なことはその情報から一体何がわかったのかということではないだろうか。

◆情報には「定量情報」と「定性情報」といわれるものがある。
定量情報というのはご承知のとおり数字だから、100%は誰が見ても100%、80%は誰が見ても80%だから、そういう意味では極めて客観的な情報といえる。
現在多くの企業では、パソコンを操作すれば居ながらにして日本だけではなく世界中の拠点の業績や営業状況が瞬時のうちに把握出来る。どこの拠点が業績がよくてどこの拠点が目標を達成していないかが一目瞭然のうちにわかる。
定量情報というのは、このように関係者であれば誰でも公平に入手できるわけである。
まさに情報化時代の産物であろう。
然しながら、自分の机に居ながらにして定量情報を通じて組織全体の動向を瞬時に知ることが出来たとして本当のところは、一体"何をわかった"といえるのだろうか。

◆「知るということ」と「わかるということ」は全く意味の違うことである。
例えば、小売業の売り場で定量情報では1000ケース売れて目標を達成したという結果が出たとしても、"その1000ケースがあっという間に売れたのか或いは長い時間かけてボチボチ売れたのか"ではその意味するものが全く異なる。
定量情報で「知るということ」はできても決して「わかるということ」にはつながらないのである。「わかるということ」は、"1000ケースがどのような売れ方をしたのか"、"その1000ケースがどのような買い方をされたのか"ということにほかならない。
これが「知ること」と「わかること」の違いであろう。

◆定量情報は「どうしてこんな結果になったのか」というような異常値を見つけたり、ばらつきを見つけたりする上では客観的な検証を可能とするので極めて意味はあるものの、そこから一定の傾向値を見出す等ということは成立しなくなってきているのが今の時代であろう。
つまり、一昨年が1000、昨年が1500、今年が2000、従って来年は2500かといったら、来年は絶対に分からないということが今の時代ではないかと思う。
何故ならば、一昨年と比較して150%増えたといっても、一昨年がどういう状況だったのか。
一昨年の状況と昨年の状況さらには来年の状況は全く異なるし、いって見れば毎年,特殊事情というのが常態化している現代は、前年に比較してどうか等といった算式で判断することは意味をなさなくなってきているのが実態である。


◆その反面、定性情報というのは定量情報と異なり人によってその理解の仕方は大きく異なる。
人によってわかり方が違うのである。
定性情報というのは聞く人によって聞き方が全く違ってくる。
例えば「仕事がうまくいっていますか?」という質問に対して「まあまあですよ」。
「まあまあですよ」というのは、良いのか悪いのかさっぱりわからないが、この人がこう言ったら良いのだとか、この人が言ったら悪いのだとか、相手によって全部違ってくるのである。

何故ならば人によって"モノサシ"が違うからである。

そのために、定性情報というのは三階層でコンタクトしていかないとうまくいかない。
 ・現場からの報告を受けるだけでなく、経営層自ら出て行く。
  経営層は経営層として外に出て行き、経営層としての情報を集めてくる。
 ・中間管理層は中間層として集めてくる。
 ・現場は現場として集めてくる。
こういったことが大事になるのである。

◆定量情報は横のキーボード一つでパッとディスプレイに表れるが、定性情報というのは聞く気で聞きにいかないと絶対に入ってこないという面で、定性情報というものをいかに集めるかということが今の時代は非常に大事になってくる。

変化の予兆を見たり、顧客満足を追求したり、顧客のウォンツやシーズを見つけたり等といったことのために、これまであまり重要視されてこなかった定性情報というものが随分大事になってきたのではないか思う。

まさに「知ること」から「わかること」への転換である。


つい先日、小生が20年以上にわたって通いつづけていた理容店が閉店してしまった。
自分の髪質やどのようなヘアースタイルにといった説明の必要も全くなく、順番がきて椅子に座れば、終了まで世の中のもろもろに対するお互いの持論をたわいもなく語り合うという月一回の慣わしが20年以上も続いてきた間柄であったために、その後どこに散髪に行けばいいのか迷うばかりである。
お店をいくつか変えてはみたもののどうも今ひとつしっくりこない。
閉店したお店は、店主であった人間が長野県から東京に出てきていろいろなお店での修行を経て小生の住む品川の商店街にたまたま独立してお店を開業したのである。
散髪中は、政治や時事ニュースを毒舌を持って風刺的に語りまた、カットのスキルの高さ等から、土日は予約しないと相当な時間待たされてしまうような盛況ぶりであった。

◆「低料金、短時間カットの理容店の新しいビジネスモデルがこの商店街にも進出し、ゆるやかに顧客の減少が始まりついに閉店せざるを得ない状況となった」という店主の話はまさに時代の流れを感じさせるものである。
然しながら、新しいビジネスモデルの台頭だけにとどまらず、かつての固定客の高齢化と本来であればその代替顧客となるはずであった若い人達の価値観の変化であろう。
今の若い人たちの買い物というのは、コンビニエンスストアでも何十秒単位でまた短くなってきているという。コンビニエンスストアで週刊誌や漫画などを一時間も二時間も立ち読みしている、ああいう人たちの時間を入れても二分とか三分とかいうことで、まだこれが短くなっている。
目的を達したらすぐ帰る。
店主のかなり一方的な話を聞かされながら時間をかけて散髪するということに対する価値観はゆらいでしまっているに違いない。

◆このように、顧客の価値観の変化というのは、はっきり見えるものと見えにくい変化がある。
ハードのもの、機能のあるものは、はっきり見えるのできちんと対応すればいいわけであるが、しかし見えにくい変化をどう捉えるかということは極めて難しい。
何時変わったかと言うと1年毎の変化では見えにくいけれど、それは10年、20年という歳月の中で徐々に変わっているのであり、長い時間の間で変わってきている。
しかし10年、20年経ってみると完全に変わってしまっているということである

◆顧客の嗜好の変化、価値観の変化というのは時系列的に、うまく拡大鏡を当てて見ないといけないということである。
そうでないと、現状が永遠に続くが如き思考にとらわれてしまい大きな判断ミスを起こしてしまう。

◆シャッター通り商店街が話題となって久しいが小生が居住している品川の商店街に限っていえば、そんな気配はさほど感じられない。
然しながら、衰退はしていないものの、商店街そのものの在りよう、店舗構成、雰囲気等は10年、20年前とは大きく異なってしまっている。
日々はさほど感じないが、今往事を振り返ってみるとその変化が大きくわかる。

変化とはこのようなものであろう。

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