2006年7月アーカイブ


最近、我が家でも脳年齢を測定するゲーム機に家族が夢中になっている。
売れ行きがいいから在庫が逼迫して某ブランドのものは、入手するのはかなりの時間を要する
ということだそうだ。

何故こんなものが流行るのだろうか?
確かに、我が身を振り返ってみると自らの手で文書やメモを書こうとすると最近とみにまず漢字が思い出せない。
また、以前であれば十分記憶していた親戚や知人の電話番号等も頭に浮かばないし手帳の住所録で確認することすらしようとしない。
全て、パソコンや携帯電話の性能に依存してしまっている。そして、この便利さがやがて当たり前のことになってしまっている。
これは記憶する、考えるという器官をどんどん鈍化させてしまうという結果につながる。
要は、使う器官は進化し、使わない器官は退化するということである。

退化させないためには、我々が常識としているところを疑ってみるということが大事ではないだろうか。
例えば、我々日本人が暗黙のうちに信じてきた"優秀さ"ということの真理。
我々はこれまで一体何を持って"優秀さ"としてきたのだろうか。
一流大学卒、一流企業の社員、中央官庁の官僚等等。然しながら、彼らのどのような能力、どのような行動を見て我々は優秀と見なしていたんだろうかということを本当に突き詰めて考えたことがあるだろうか。

日本という国、経済や行政のメカニズム等何ひとつとっても全く改革することも出来ない官僚達が本当に優秀といえるのだろうか?
自分の欲求や論理を押し殺して組織の論理に押しつぶされて"生活のためだから"とか"企業とはそのようなものである"と嘯いて単に一流という企業の名前だけにしがみついている人達が本当に優秀といえるのだろうか。

そろそろ我々日本人もステレオタイプに紋切り型にこのようなことを唱えることはやめて、自分の目で自分の頭で物事の本質を捉えて自分で判断し、自分なりの意見を持つということを一人ひとりがしていかないとこの国は決して変わらないだろう。

企業組織でも、自ら考える、自ら調べる等といった自らの労力や汗を惜しみ効率性や生産性のみの追求に走っている組織ほど単に意味もない流行りの手法の導入に走り、現場での知恵とか知恵の蓄積ということが全く出来ていないというケースが多い。

最も重要なことは、知的能力を開発することでもなく、使われていない右脳を使うことでもなく、常識を開発・発達させることである。
ロジカルシンキングが重要なのでなく、全てのことを自分の頭の中で考える対象として捉えられるかどうかそして全ては、この常識をいかに使うかということではないだろうか。


紫陽花で有名なお寺に出掛けてみた。実に多くの見物客であった。梅雨の晴れ間の日曜日。示し合わせたかのような賑わい。紫陽花見物の人で境内は一杯であった。しかし、美しい紫陽花に囲まれて、時間がゆったりと流れ、日頃の忙しさをしばし忘れられる心地よい雰囲気であった。

そんな中、私のすぐ横を小学校低学年と思われる男の子が走っていった。後ろから、お母さんと思われる女性が男の子に「走らないで、お母さんたちと一緒にいなさい。」と注意する声が聞こえた。立ち止まった男の子に追いついたお母さんの「お利口さんね。」という声が聞こえた。男の子には、一人で未知のものに触れてみたいという気持ちがあったのか。先に行って、お父さんやお母さんにきれいな紫陽花を見せようとしたのか。分かるものではないが、一人で先に先に進んでいた男の子が、お母さんの言いつけをしっかり聞いて、お父さんと赤ちゃんの家族4人で歩いていく姿が微笑ましかった。

ふと、自分も小さい頃、同じように母の言うことを聞いて「お利口さんね。」ということをよく言われていたことを思い出した。
この男の子は大勢の人の居るところでは自分勝手に走りまわっては周りの人たちに嫌われるという常識を教えられ、それを理解して立ち止まったのかもしれない。世の中の常識を学んだとすれば素晴らしい現場教育ではないか。
反面、自分は母に言われたことに従うことそのものが目的になっていた。「お利口さんね」と言ってもらうことそのものが目的であった。「親の言うとおりにする」ことを学んでしまったのである。周囲に対する配慮という常識を学んだのではなく、叱られて嫌な思いをするより自分が楽な方を選ぶことを是とすることを学んだように思う。母に叱られたり、母が父に告げ口をして父に激しく叱られるのを避けるために、問題発生の初期段階で何もなかったかのように処理してしまうことが身に付いてしまった。男の子と比較した一瞬の内に自分の行動特徴とつながり、自己を客観視できたのであった。
母が父に告げ口をするというパターンは、先日の奈良の医師一家放火殺人事件を連想させる。もしかしたら、事件を起こした少年は自分の気持ちを閉じ込め、自分の心を殺すような行動は取れなかったのかもしれない。そうであれば、私よりも人間らしかったのかもしれない。

お母さんの教えから常識を理解したのではないかと思える素敵な男の子と、母に叱られないために打算的に親に従っていた自分と、憎い父親には従いたくないと告げ口をする母親を殺そうと家に放火した少年。夫々「言うことを聞いてお利口さんね。」と同じように言われていたであろう、この3人の共通点は何であろうか。

親の側から見れば、「親が自分の言うとおりにさせようとしている」ということである。
しかし、子育てで大事なことは、世の中の常識を教えることであり、常識から考えられるようにすることではないか。それが根底にあれば、相手のことや周囲のことを考えて、相手の意見を無条件に受け入れるのではなく、相手の立場などを受止めながら考えるといったスタイルが身に付くのではないか。

人財育成を課題に置く我々OBTトレーナーが心したい点である。

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